第36話 手は引かれる。僕らは走る。

「母が、来たんですか?」


 その言葉は、酷く慎重な声で響いたと思う。


 正直、信じられなかった。

 今までだって、僕が何度も殺人事件の目撃者として警察署に呼ばれていても、決して迎えに来てくれはしなかった。

 ノートに――僕と両親の唯一のコミュニケーションでもある連絡ノートで僕の状況を知らせたこともあるが、両親からの返事はこうだった。


『あなたは特別な人間です。自分で解決しなさい』


 僕に興味など無いのかとも思う。

 あるいは、僕が自分が容疑者として扱われていると危機感を持って知らせていれば……いや、知らせるだけではなく、両親に対して助けて欲しいなど具体的な要望を書けば、また違ったのかもしれない。


 しかし、例えそのような言葉を書いたとしても、両親の返事は変わらなかっただろうなと言う、確信のようなものは、ずっと僕の中にあった。


「健太郎君。どうしたんだ?」

「いえ」


 固まったままの僕に、一条さんは声をかけてくれたが、僕は意味のある返事をすることが出来ない。


「信じられなくて。その、母が来たのが」


 口から出た言葉に、一条さんは「本当だよ」と言った。


「君の両親は、ずいぶんと忙しい人達の様だな。連絡を取るのに苦労したよ。しかし、子供が警察署にいると伝えても、慌てた様子もない。僕から見れば」


 一条さんは首を振る。


「いや、やめよう。出過ぎた真似だ。それじゃあ、健太郎君」


 立ち上がった一条さんは、僕の耳元に顔を寄せて「後で連絡する」と囁き、そのまま部屋のドアを開けた。

 そして僕は、部屋の外を見ていた。

 通路の先に座っている母の姿が見えたのだ。


 母は、一条さんに気がつくと立ち上がり、一礼すると部屋まで歩いてきた。


「健太郎。帰りますよ。あなたの家へ」


 喋ったのはそれだけだった。

 僕は金縛りにあったかのように数秒だけ母を見つめた後、立ち上がり、部屋の外に出る。

 母の後ろについて草蒲署を出るまで、僕も母も無言のままだった。


 そのまま母の車に乗り、車が発進して草蒲署の駐車場を出た時、ようやく沈黙は破られた。


「久しぶりね、健太郎」


 僕は「あ。うん」と、言葉を発したが、母からの反応は無い。

 僕には母に言いたい事、話したいことがずっとあった気がした。

 今までの事。事件の事。急に迎えに来てくれた事。

 何から話せば良いのか分からなくて、僕は自然と胸に拳を当てていた。

 今の、車の空気が苦しかった。

 気が付くと、僕の目からは涙がボロボロと零れている。


 そのまま車は走り続けて、家に到着すると普段は空っぽのままであった家の駐車スペースに停車した。

 母は、無言だった。

 車のドアを開けても、僕が後を追う様に車から出ても、その背中だけが見えるで、何も語ろうとしない。

 そうして母がカバンからカギを出し、ドアに差し込もうとした時、僕はやっと声を上げることが出来た。


「母さん」


 その名前を呼ぶだけで精いっぱいと言う感じだったが、何とか言葉を続けた。


「母さんは、どうして来てくれたの?」


 母は動きを止めて、答えた。


「健太郎に失望した。それを言い聞かせに来たのよ」


 心臓が止まりそうになった。

 振り返った母の顔は冷徹そのものだったのだ。


「あなたは特別な存在だった。優秀な私と、私の夫の遺伝子を継いでいる。事実、知能指数テストの数字も悪く無かった。それなのに、このていたらくは何?」


 僕は、自然と後ずさる自分の足を感じていた。

 あまりの言葉に、汗が噴き出ている。

 次第に上下の間隔も無くなり、倒れそうになる自分の体を感じて、必死にバランスを保とうとした。

 何か、言わなければ。


「俺は、頑張ったんだよ、母さん」

「頑張った? それで? 何が出来たって言うの? 何も出来ていないじゃないの。何もかも失って。負け続けて。まったく私の教育実験は甘かったと言わざるを得ないわ。試練が足りなかったと思うしか」

「実験? 試練?」

「今のような事態に対応できるように成長させる事よ。今のあなたは、あまりにも弱く、情けない」


 母の視線が僕の体に刺さる。

 でも、僕は僕なりにやれることをやったのだ。

 殺人事件の事。その後、僕が石貝らクラスメイトに言われた事。

 助けられなかった伊藤巻の事。笹山村さんの事。新郷禄先輩の事。

 それをどうしても伝えたかった。


「母さん、俺、母さんの言う通り、結果的には何も出来なかったかもしれないけど、精いっぱいやったんだ。酷いことが、たくさんあって、だけど、頑張ったんだよ。友達が死んだんだ。好きな人も、殺されて。でも、俺は」


 涙が止まらない。

 悔しいのか、悲しいのか、それすらも分からない。


「俺は、母さんが」

「私が、何? 私に助けて欲しかった?」


 頷いた。

 そして母は、僕の言葉に心の底から失望したようだった。


「甘ったれて親に頼るな。ここまで性根が腐っているとは思わなかったぞ。このクズが」


 母は冷たく言い放つと、フンと鼻を鳴らし、さらに続けた。


「まだ結論は出したくは無かったけれど、どうやらもうダメね。失敗作なんだよ、あなたは。健太郎」

「俺が、失敗作?」


 僕は、母に気圧されて、動くことも出来ない。


「そう。失敗作。もう、ここまでよ。私は実験の方針を間違えた。今後はお前を私の監督下に置かせてもらう。明日にでも。あなたのお父さんも私の考えに賛成してくれるはずだ。今のお前を見れば、私と同じ考えに至るに決まっている」


 実験と言う言葉は、嘘ではないのかもしれない。

 僕は、母にとって、そして父にとっての、実験の対象でしかないのだ。

 観測するための実験動物だったのだ。

 そういった意味での特別な存在。僕は家族として見られていなかった。

 言葉がまるで出て来ない。

 呼吸も出来なくなり、そのまま死んでしまうかとも思った。

 だが、その時、僕は背後に何者かの気配を感じた。

 現れたと言っても良い。

 ブレーキの音だろう。キィィと言う高い音に振り返ると、そこには自転車に跨った、背の大きな女の子がいた。

 僕の、一番の友達だ。


「ガオちゃん?」


 ガオちゃんは自転車から降りると、僕の肩を掴んだ。

 夜の中で街灯に照らされたガオちゃんは、実に好戦的な目で母を見ている。

 それを見た母は、うっすらと笑みを浮かべながら言った。


「どうやら、悪い友達が来たようね、健太郎」


 ガオちゃんが舌打ちし、返す。


「悪い友達だと? じゃあ、あんたは悪い母親じゃないか。聞いてたぞ。あんた、健太郎の母ちゃんなんだろ? 何が実験だよ。何で、自分の子供に、こんな」

「他人の家庭問題に口出さないでくれる?」


 母が言葉を遮り、笑い顔を作った。

 そして、分かった。

 母が笑うのは、ガオちゃんと一緒でイラついている時の癖みたいなものなのだ。

 母は、靴で地面をコツコツと叩き、ガオちゃんに言う。


「あなたを知っていますよ、石母棚薫子さん。いえ、以前は違う名字だったかしら。健太郎の、小学校の時の同級生。親の離婚で、母親の旧姓になったんですもんね。乱暴者で、引っ越した先の中学校では暴力沙汰も起こしている不良。援助交際の噂もあった。それでわざわざ草蒲市に帰って来たらしいわね。で、援助交際は今もしているのかしら?」


 ガオちゃんが掴んでいる僕の肩が痛い。

 顔を見ると、そこには複雑な表情があった。

 怒っているのか、それとも、僕の母に恐れを感じているのか。


「違う。あの噂は、嘘だ。あのクソ教師が殴られた腹いせで流した。質の悪い嫌がらせだ。って言うか、何で、あんたが、そんな事を知って」


 戸惑うガオちゃんに向けて、母はクククと笑い、言った。


「汚らわしい女だ。その子から離れなさい。お前は息子の友達に、一番ふさわしくない人間だ。一度は遠ざけたのに、また近くに来るなんてね。このまま健太郎の近くに居続けるのなら、今度はお母さんの方も不幸に遭うぞ? 怪我して、職を失って、借金を背負う。涙を流してあなたに謝ることになるでしょうね。あなたのお父さんみたいに」


 母が続けて「ねぇ? 石母棚さん。言ってる意味、分かるでしょ?」と言った言葉に、ガオちゃんが「父ちゃんみたいに、だと?」と返す。


「オレの父ちゃんの方に何かしたって言うのか? オレが健太郎の友達だったから、だから、オレの親は離婚したって言うのかよ」

「そう聞こえたかしら? でもね、私は何もしてないわ。もちろん、そうなれば良いなと私が思うのも自由だし、私の意向を知った誰かが行動を起こして、結果的に誰かが不幸に遭ったりしたかもしれないけれど。それって、私が何かした事になるかしら?」


 母は、化け物なのかもしれない。

 少なくとも今は、とても人間とは思えなかった。

 僕の親が運営している会社がどれくらい大きな会社なのかは僕は知らないけれど、僕の家が普通よりもずっと金持ちの部類にあるのは分かる。

 きっと母がやろうと思えば誰かを不幸にすることなんて簡単な事なのだ。


「ね? 今の生活が大事でしょ? お母さんが大切でしょ? 石母棚薫子さん? 分かったなら、健太郎を離しなさい」

「が、ガオちゃん」


 僕が不安げに言うと、ガオちゃんは唇を噛み、掴んでいた僕の肩を離した。

 仕方ないとも思う。けれど、僕にはショックだ。


 だが、そう思うのも一瞬で、次の瞬間には予想外の事が起きた。

 ガオちゃんは、僕の肩を離した手で、僕の右手をギュッと握ったのだ。


「話が分からなかったのかしら」


 母が言うと、ガオちゃんは歯をむき出して、言った。


「やれるものなら、やってみろよ」


 ひきつった笑いを浮かべた母は、一歩前に出て今度は僕に言う。


「健太郎! そんなくだらない女に近寄るな! こっちに来なさい!」


 母の鋭い言葉に震えた僕の体を、ガオちゃんが支えた。


「うるせえ! 何があったって、健太郎をあんたなんかに渡せるかよ! そんなんで、本当に親なのか? 異常者だよ、あんたは! 健太郎は、お前のオモチャなんかじゃないんだぞ!」


 ガオちゃんは僕の顔を見て、少しも怖くないと言ったように、笑う。


「大丈夫だぞ、健太郎。離したりなんかしないからな。オレの母ちゃんは強いんだ。オレの選んだ事に、きっと賛成してくれるはずだ。だから、大丈夫だぞ健太郎」


 ガオちゃんはそのまま僕の手を引いた。


「来いよ、健太郎! オレと一緒に行くぞ!」


 ――ああ、そうだと僕は思った。

 僕を連れ出すのはガオちゃん、いつも君だった。

 寂しい時だって、僕を一人ぼっちには決してしない。

 掴んだ手を、絶対に離さない。

 ガオちゃんは、いつも僕の手を引いてくれる。


 心に灯がともったかのように、僕の緊張は解けていった。

 僕は足に力を込めて、ガオちゃんと一緒に走りだす。

 行く先は酷く暗く見えたけれど、それでも、ガオちゃんの手は温かい。


「後悔することになるわよ」


 後ろから母の声が聞こえた気がしたが、もう、構わないとも思う。

 ただ、ガオちゃんが母に向けて叫ぶ声が聞こえた。


「知るか、バカ!」


 そのまま逃げだすように、僕らは全力で走った。

 ガオちゃんは足を止めず、体力的に劣る僕はだんだんと苦しくなったが、それでも走り続けて大通りに出た。

 そして、ガオちゃんが立ち止まり、「しまった」と言う。


「ど、どうしたの?」

「自転車置いて来ちまった。道端だからなぁ。盗まれたりしないと良いけど」


 後で取りに行かなきゃな、なんて笑った後、ガオちゃんは手を広げて僕の事を抱きしめた。


「が、ガオちゃん?」

「心配すんな。大丈夫だぞ。大丈夫だからな」


 ガオちゃんの胸が僕の顔に押し付けられる。柔らかくて、大きい、とも思ったが、ちっともいやらしさなんか湧かなくて、ただただ温かかった。


「負けんなよ、健太郎。何があっても、オレが守ってやる。だから、絶対に負けんじゃねぇぞ」


 少ししてガオちゃんは、ようやく今いる場所が人目のある大通りであることに気づいたのか、僕を離す。


「と、とりあえずオレの家に行こうぜ。そしたら、飯を腹いっぱい食わしてやるから、ぐっすり寝ろ。少し休むんだ。酷い顔だぜ」


 僕は涙の痕を手で拭うと、まるで小学生だった頃の様に、小さく頷いた。

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