第34話 内野之優子は振り向かない

「よう、元気か? 内野之」


 ガオちゃんが内野之に言う。

 まるで、今までのトラブルなんてなかったようだった。

 これはガオちゃんの良いところではある。


「う、うん。カオちゃんは、元気?」

「何言ってんだ。オレに元気がない日なんてあるかよ」


 いくらガオちゃんでも流石にあるよと言いそうになったけど、とりあえず僕は頷いておいた。

 と、内野之が視線を僕に変えていることに気づく。


「あ、あの、宝田君は、元気?」


 返事をしようとした僕だったが、体は固まっていた。

 どうにも気まずいのだ。

 外貝とのトラブルがあったあの一件以来、僕と内野之は口も聞いていないのである。

 とは言え、話しかけられて黙っているのも嫌だった。


「元気だよ。内野之は家この辺なの?」

「うん。今日は買い物に行ってて。その帰り道」


 なるほど。内野之は手にビニール袋をぶら下げている。


「何を買ったの?」

「それは、えっと、内緒」

「そっか」


 それっきり、何も言えなくなる僕らだった。

 ぎこちなさは隠しきれない。

 内野之も同じ気持ちなのだろう。

 どう見ても戸惑っているような表情で、僕と視線を合わせようともしない。

 だが、それでも内野之は口を開いた。


「宝田君、もしかしてだけど、事件の事を調べているの? カオちゃんと」

「え?」


 言葉に詰まる。

 事件とは、殺人事件の事だ。

 内野之からその言葉が出た事には素直に驚いたが、どうして僕が調べていると思ったのだろうか。


「違ったらごめん。でも、宝田君なら、そうすると思って」

「俺は、その」


 買いかぶり過ぎだよと思う。

 事件の事を調べていたのも新郷禄先輩に連れ出されるような形だったし、今なんて、事件の事を諦めかけているのだ。

 殺人事件は、もう、解決不可能に思える。

 一条さんの話では警察も捜査を終わらせる予定だし、僕には何の事実も突き止められそうにない。


「あのね、宝田君。私、事件の事で気になってることがあって、実際に行って、確かめなきゃって思うんだけど、あのね。学校に」


 言いかけた内野之だったが、僕の後ろにいたガオちゃんがその言葉を遮った。


「別に事件の事なんか調べてないぜ」


 ガオちゃんが、まるで僕を守るかのように前に出た。


「なぁ、内野之。健太郎がどんな目に遭ったかお前も知ってるだろ? 確かに警察に犯人扱いもされたみたいだし、教室じゃお前の彼氏に人殺し扱いもされた。殺されたのも知ってる奴ばかりだ。健太郎なら調べようとしてもおかしくはないだろうな。でも、こいつはもう限界なんだよ。疲れてんだ。だからもうよしてやれ」


 内野之はあからさまにショックを受けている顔をしていた。

 いや、事実ショックを受けているのだろう。


「ごめんなさい、私。そんなつもりじゃ」

「良いよ、内野之」


 僕は言った。

 だが、内野之は何秒か黙った後、とんでもないことを言い出した。


「あの、じゃあ、今日はどうして二人でいるの? 宝田君は、カオちゃんとお付き合いしてるの?」

「えっ?」


 自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。


「だって、仲良くお出かけしてるって事でしょ? 二人きりで。デート?」

「いや、二人でいるのは間違いないけど、そんなんじゃないよ。俺とガオちゃんは」


 僕が慌ててそう言うと、ガオちゃんも続いた。


「いきなり何を言ってんだよ。オレと健太郎が付き合うわけないだろ?」


 背中しか見えないが、肩を揺らしているので笑っているのかもしれない。

 だが、内野之は小さく、注意しなければ聞き取れないくらいの声で、つぶやく。


「そんなの、信じられない」


 何が? と思う。

 だが、何か言う前に、僕らは振り返っていた。

 後ろから短いクラクションと共に、エンジンの気配を感じたからだ。


「車だぞ、健太郎」


 ガオちゃんの言う通り、白い色のバンがそこにあった。

 そんなに車も通らない道に、なんで? とも思ったが、良く地面を見れば車のタイヤの跡がいくつも刻まれている。

 僕らは自転車を車道から移動させて、内野之もそれに続いた。



 治水緑地の外周にある道路の内側は良くある川の土手の様になっていた。

 短い草の生えた緩やかな坂がすり鉢状の地形を作っており、中心からやや偏った位置に大きな池がある。

 土地の半分以上を占めている巨大な池だが、当然ながらそこで泳ごうなんて人間はどこにもいない。

 池の浅瀬に高い草が群生していて、分厚い壁のようになっているのだ。

 池の水面なんて大して見えもしないし、それら草の壁を掻き分けて池に入るのは、ちょっと大変だと思う。

 もちろん、水だって清潔で無ければ虫もウヨウヨいるし、ここで泳ぐくらいだったら多少お金がかかっても、市民プールに出かけた方がずっと良い。


 と、僕らは下り坂の下。池沿いに走っている、ちょっとした散歩用の遊歩道を歩いていた。

 何故そうなったのかは分からない。

 最初は車を避けただけのはずだったが、僕らは自然と下に降りるための道を進んでいたのだ。


「池に落ちるなよ、健太郎」

「まさか。落ちないよ」


 僕とガオちゃんは笑いながら言い合う。

 地面は少しだけぬかるんでいて滑って転びそうにもなったけれど、こうして歩くのは良いものだ。

 ただ、僕らの前を歩いている内野之の小さな背中が、どうにも気になった。

 と、内野之が突然振り返って、真面目な顔をして言った。


「カオちゃん。私、どうしても知りたい。今しか聞く機会なんか無いと思うから」

「は? 何を?」


 怪訝な顔をするガオちゃん。

 当然だ。意味が分からない。


「私、宝田君とカオちゃんは、すっごい仲良しに見える。お付き合いしてるみたいに」

「だ、だから何を言ってんだよ、内野之は。オレと健太郎が付き合ってるわけねぇだろうが」

「じゃあ、カオちゃんにとって、宝田君って、何なの?」

「何って、そりゃ」


 ガオちゃんがうーんと唸り、数秒した後に言う。


「相棒だよ、相棒」


 相棒か。

 なんだか特別な感じがして悪い気はしなかった。

 僕にとってのガオちゃんは一番の友達であるし、彼女もまた特別な存在ではあるのだ。

 ただ、これは恋愛事とは無縁の関係性である。

 僕とガオちゃんは、何て言うか、そう言うのじゃない。

 もっと、特別で強力な繋がりなのだ。

 と、内野之が急に僕に話を振って来た。


「宝田君はどうなの? カオちゃんの事、どう思ってるの?」

「俺? えっと」


 何と答えようか迷う。

 相棒だよ、と言おうとしたけれど、ガオちゃんに「真似してんじゃねぇ」って言われながら殴られそうだし。

 しかし、内野之が何でそんなことを言うのか、さっぱり分からない。

 何か、理由でもあるのだろうか。


「いい加減にうるせぇぞ、内野之。そんなの聞いてどうするんだよ」


 僕の代わりにガオちゃんが、答えた。

 まずいと思う。

 本気でイラついているのが分かったからだ。

 だが、僕の焦りなんて気にもせず、内野之はガオちゃんの逆鱗に触れ続けた。


「お願いだから、教えて。宝田君は、カオちゃんの事、好きなの? それとも、他に好きな人がいるの?」

「うるせぇって言ってんだよ!」


 ガオちゃんが怒鳴った。


「何なんだよ、お前は! 何がしてぇんだよ! さっきから意味わからねぇ事をウダウダ言いやがって! 今の健太郎にそんなこと考えてる余裕なんてねぇんだよ! だいたい、お前は他人の恋愛事に首突っ込んでるような余裕あるのか! 何で外貝なんかと付き合ってんだよ! 言っとくが、お前が外貝と付き合ってることにムカついてるのは、武雅むがだけじゃないんだぞ!」


 武雅。武雅まつりだ。

 内野之とは親友と言っても良い間柄だったが、外貝との件で友情にひびが入ったと聞いている。

 と、今はそれどころじゃない。

 見れば、顔を真っ赤にした内野之が、ガオちゃんに突撃していた。


「私はただ、知りたくて!」

「だから、知ってどうするんだよ!」


 伸ばした内野之の手を払ったガオちゃんの自転車が倒れる。

 と、同時に内野之まで地面に倒れこんだ。

 ガオちゃんの腕力で振り払われたらバランスを崩して当然だ。


「ガオちゃん、落ち着いてよ」


 ガオちゃんは、駆け寄った僕に返事を返さなかった。

 舌打ちすると自転車を起こし、坂を上り始める。


「が、ガオちゃん、どこに行くの?」

「帰る。これ以上ここにいると、いくら内野之でもぶん殴りそうだ」

「待ってよ」

「うるせぇぞ。止めたらお前も殴るからな。オレは今、腹が立ってんだ」


 経験上、こうなっては何を言っても無駄だと言う事を、僕は知っている。

 こうしてガオちゃんは振り返りもせずに、元来た道を戻り、その場には、茫然と立ち尽くす僕と、地面に転んだままうつむいている内野之だけが残っていた。


「内野之、大丈夫か?」


 僕は内野之に手を差し伸べたが、内野之は動かない。


「内野之、お前、どうしちゃったんだよ、なんであんな事、ガオちゃんに」


 言いかけたその時、内野之が手の買い物袋から品物が飛び出しているのを見た。

 形状と大きさから、お菓子の箱かとも思ったが、どうにも見慣れないパッケージだった。

 その箱には『うすい』の文字や『0.03』等の数字が見えて……


 内野之がハッと顔を上げ、転がっているその箱を買い物袋に隠す。

 が、僕はすでに、それらが何なのかを察してしまっていた。

 あれは、実際に手にしたことは無いけれど、男性用避妊具――コンドームじゃないか?

 だが、自信は無い。

 内野之がそれを持っていることが、全くイメージ出来ない。

 内野之がそれを使うと言う事も、何も。


 と、考え込んでいる僕の顔を見た内野之は、暗い表情で言った。


「宝田君。本当に好きな人とお付き合い出来るって、難しいんだよ。とても」


 それは、内野之が自分自身に言い聞かせている様に聞こえた。


「好きって気持ちは、伝えられる時に伝えないと言えなくなっちゃうから。だから、宝田君には後悔して欲しくなかったの。好きな人がいるんなら、すぐにでも好きって言って欲しかったから。……でもね、こんなの、嘘」

「嘘?」


 内野之は小さくうなずいた。


「本当は宝田君とカオちゃんがお付き合いしてなくて、ホッとしたの。ただ、確かめたかっただけ。今しか、聞けないと思ったから」


 僕は黙って聞くことにした。

 内野之の言っていることの意味が、まだ分からない。

 だけど、何か、意味のあることを言おうとしているなら、その言葉を聞かなくてはならない気がしたのだ。


「宝田君」


 内野之は寂しげに笑う。


「私ね、好きになった人がいたの。入学してすぐに」

「え?」

「でもね、その人、すごくモテたの。周りにいるのは可愛い子ばっかりだし、こんな子供みたいなチンチクリンの私じゃあ、絶対無理だって思った。こっそりお弁当も作ったけど、渡せなくて、落ち込んで……ただでさえそう思ってたのに、もっと言えない理由も出来たの。私の一番の友達も、その人の事が好きだって気づいたから」


 内野之はそこまで言うと、小さく笑った。

 その目に、涙が浮かんでいる。


「まつりちゃんがね。まつりちゃんがその人のこと好きって気づいちゃったから、好きだって、その人に言えなくなっちゃったんだ。だって、私と同じ人を好きになったって知ったら、まつりちゃんは身を引いちゃう。私に遠慮して、私の事応援しちゃう。だから――」


 だから――


「だから、外貝と付き合ったのか?」


 内野之は静かに首を縦に振った。

 涙が次々と地面に落ちていく。


「仕方が無かったの。私が別な人を好きだって、まつりちゃんに思わせなきゃダメだったから。あのままでいたら、きっと気づかれちゃってた。だから、私が他の人と付き合えば、まつりちゃんは私の事なんか気にしないでその人の事を考えていられると思ったの。それに外貝君、こんな私の事が好きだって言うから。最初は断ったのに、毎日ずっと言って来て、私の事を大切にしてくれるって言うから。でもね」


 内野之はそこで、ちいさくしゃくり上げると、涙をぼろぼろと地面に落とした。


けてくれないの。私が用意しないと」


 着けてくれない?

 瞬間、買い物袋をギュッと握り締める内野之を見て、全てを察した。


「そ、そんなの、大切にしてもらってないだろ。別れろよ、あんな奴」

「別れない」

「何でだよ! 辛いんじゃないのかよ、内野之!」

「それでも、別れない」


 まるで強情だった。


「なぁ、内野之。恋人になるって言うのは、もっと、相手を大事に想ったり、想い合ったりして、幸せな物じゃないのか? 外貝の事、好きでも何でもないんだろ? こんなの、バカだよ! 絶対に間違ってるよ!」


 僕のその言葉に、内野之は泣きながら笑う。


「分かってる。バカだよね。こんなの、正しくなんかないよね。でも、これで良いんだ。私は今もその人の事が好きだけど、まつりちゃんがその人の事を考えていられるなら。正しくなくたって、バカだって、これで良いの」


 良いわけがない。

 だが、何を言えば良い?

 僕が何を言おうと、きっと内野之は意見を変えない。


「もう、行かなくちゃ。出かける準備しないといけないから」

「出かけるって、どこに?」

「外貝君の家。夕方には来るようにって言われてるから」


 内野之は静かに歩き出した。

 坂を上がり、遠ざかっていく。

 何としても止めなければと思う。

 だが、何を言えば良い?


「ねぇ、宝田君」


 内野之は坂の途中で、一度だけ振り返る。

 こんな時だけれど、僕は内野之の姿に目を奪われていた。

 内野之の顔を流れていた涙が、太陽の光で輝いて見えたのだ。


「宝田君は、絶対後悔しちゃダメだよ。宝田君は、辛い事もたくさんあったのに、みんなのために頑張れて、すごくカッコいいんだから。私の憧れ。私の特別。ずっと応援してるからね。だけど、少しだけ。もう少しだけ、自分を見ている人に気づいてあげて。本当に少しだけで良いの。まつりちゃん、素直じゃないから分かりにくいけど、ちゃんと」


 鈍い僕でもさすがに気づく。

 ……僕だ。

 内野之が言った好きだった人とは、僕の事なのだ。


「さよなら、宝田君」


 内野之は、もう、振り返らない。

 だが、絶対に外貝のところに行かせてはいけないと思う。

 いっそ手を引いて内野之をどこかに連れ出したくもなった。

 いや、そうするべきだ。

 そうするべきなのだ。


 でも、それで、その後は?

 僕は内野之の『好き』に応える事が出来ない。

 先輩の事もあるし、とてもじゃないけれど無理だ。

 それに僕が内野之の好意に返事をする形になっても、武雅の事を想う内野之は足を止めないだろう。


 それが分かっているからか、どうしても手を伸ばすことが出来ない。


 ――しかし、それでもと思う。

 今は正しさなんか、必要ない。

 僕は、どう言う形であれ、内野之に外貝のところに行って欲しく無いのだ。


「内野之! 待ってくれ!」


 内野之は振り返らない。


「少しで良いんだ、俺と話を」


 だが、僕が勢いよく内野之を追いかけようとしたその瞬間――ポケットの携帯電話が鳴った。

 一瞬迷う。

 今、内野之の手を掴むこと以上に大切な物があるだろうか。

 とは言え、反射的に取り出していた携帯電話の画面がどうにも気になった。


『着信 公衆電話』


 嫌な予感がする。

 電話をとらなければ後悔しそうな、確信めいた予感だ。

 次の瞬間、おそらく本能的に僕は、通話のボタンを押していた。

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