2000年 6月10日 土曜日

第33話 石母棚薫子は一番の友達

 ガオちゃんに呼び出されたと言っても、電話で呼び出されたわけではない。

 まさかのインターホンである。

 来客を告げる電子音に重い腰を上げ、玄関のドアを開くと、ガオちゃんがいたのだ。


「よっ、健太郎。元気か?」


 へへっ、と鼻をこすったガオちゃんは「雨あがったからさ、ちょっと出かけようぜ」と言う。


「ごめん、ガオちゃん。今日はちょっと元気が無くて」

「良いから来いよ。いつかおごるはずだったタコ焼き、今度こそ奢ってやるからさ」


 ガオちゃんは強引に僕の家に足を踏み入れると、僕の腕をつかんでグイグイと引っ張る。

 痛いくらいの強引さだった。

 抵抗すれば痛みが増すばかりだと知った僕は「わかったよ。ちょっと支度して来るから待ってて」と言うしかなかった。

 自室に向かった僕の背中に「早くなー」と言うガオちゃんの声がぶつかってくる。

 そんな、まるでいつも通りのガオちゃんの行動が、僕に懐かしさを感じさせていた。

 ガオちゃんはいつもそうだった。

 僕が元気が無くても、遊ぶ気じゃなくても、いつも僕の手を取って、強引に連れ回すのだ。

 むしろ、元気がない僕を元気づけることの方が多かった。

 今思うと、こうしたガオちゃんの行動に何度救われてきたか分からない。

 今もそうだ。小さなころから、ずっと変わらない。

 僕は財布と戸締り用のカギを持つと、玄関に走った。


「何だよ、健太郎。辛気臭い顔してよ。元気出せよ、元気」


 再び外に顔を出した僕の顔を見て、ガオちゃんがスンスンと鼻を鳴らす。


「タコ焼きだぞ。お前好きだろ? なぁ、タコ焼きじゃダメか?」

「いや、タコ焼きは嬉しいよ。でも、色々あったんだ。笹山村さんが死んでから。特に、ここ何日か、色々」

「色々?」


 珍しく気づかう様子を見せたガオちゃんに、僕は「大丈夫だよ」と言った。

 戸締りをしようとしたが、鍵が上手く締められない。

 無意識に緊張でもしているのかと不安になり、少しだけ深く息を吸い込む。

 深呼吸だ。


「まぁ、良いや。とりあえず、八束駅まで行こうぜ」


 その間、自転車に跨ったガオちゃんは、ハンドルだけを左右に振りながら、陽気に言う。


「行きながら聞かせろよ。何があったか。話せる部分だけでいいから」


 〇


 さて、僕の自宅から八束駅へのルートはいくつかあるのだけれど、絶対に通らないルートがある。


 それは国道Y号線を南に向かうルートで、何故そのルートを避けているかと言うと、国道Y号線の道中に草蒲警察署があるからだ。

 見るだけで気力を削がれるとなれば、僕がその国道を避けるのも仕方がない事ではある。


 そんなわけで、6月10日、土曜日の正午過ぎ。12時15分。

 僕とガオちゃんは普段使っている通学路を使うルート――八束駅を最寄り駅とする草蒲南高校へ一度行き、そこから八束駅へと向かった。

 その途中、僕はガオちゃんと会わなかったここ数日に起きたことを、話せる部分だけ話した。


 新郷禄先輩と組んで、いろいろ捜査した事。

 薬師谷先輩が新郷禄先輩を襲う計画を立てていた事。

 もちろん、新郷禄先輩が援助交際のグループを組織していた事は喋らない。

 そして、僕が新郷禄先輩に告白されて、返事を出す事が出来なかったと言う話をした。


「返事、出来なかったか。まぁ、お前にも色々あるんだろうけどさ」


 ガオちゃんは僕の顔から視線を外し、どこか遠くを見るように言った。


「オレは、なんかこう、惚れた腫れたっての、よく分かんねーけど、あの新郷禄先輩がお前を好きだったってのは、ちょっと分かるな。いずれこうなるんじゃないかなってのも、薄々」

「え?」

「だって、なんか似てるとこあるだろ? お前とあの先輩」


 それは意外だった。

 もちろん、僕自身が実感として新郷禄先輩と似ている部分があると感じていると言うのは別として、外から見て似てると感じれるものなのだろうか。


「そんなに似てる?」

「顔とかじゃねぇぞ。ただ、なんとなくそう思うことがあったくらいだ。たまにすげぇ寂しそうって言うか」


 感心した。

 繊細な部分があることは僕も知っているのだけれど、人の内面を見ると言う点で、ここまで色々感じ取れる人間なのだと言う事に、少しだけ感動もする。


「何だよ健太郎。変な顔して」

「いや、意外と人の事を見てるんだなって」


 ガオちゃんはへっと恥ずかしそうに笑った。


「言っとくけど、お前の事だけだからな。お前のことは俺が一番よく知ってるんだぜ。昔とあんま変わってないから、分かりやすいし」

「そっか」


 確かに、僕は根っこの部分は変わってないのかもしれない。

 変わらずに特別な存在ではあるのだけれど、両親との関係も変わっていないのだから、そう言う寂しさを抱えた部分と言うのは、僕自身が忘れた気になって過ごせていても、ガオちゃんにはバレバレなのだろう。


「まぁ、良いさ。ともかく月曜日なんだろ? あの先輩に返事するの」

「うん。だから、それまでにはどう返事するのか考えないといけなくて」

「まだ決まってないんだな? 返事」

「うん」

「笹山村の事、好きだったからか?」


 ギョッとして、ガオちゃんの顔を見た。


「バレバレなんだよ、健太郎。お前の事はオレが一番良く分かってるって言っただろ?」

「あ、うん」

「そっか。そうだよな。それは……そんな状態のお前じゃ、すぐに返事は出来ないよな」


 そこまで話しながら、ふいに何度か感じた事のある感覚――何か、大きな間違いをしてしまったかのような、喪失感にも似た胸のざわつきを感じた。


 僕は息を落ち着かせながら思う。

 きっと先輩の事で、自分の想像以上に心が弱っているのだと。

 事実、何をしても先輩を思い出して心が辛いと言うのは真実だった。

 先輩は今日、何をしているのだろうか。

 自然とポケットの携帯電話へ手が動き、先輩の電話番号を思い浮かべても見たが、『学校で』と言った先輩の言葉を思い出し、考え直した。

 今電話するのは、きっと正解じゃない。

 今は僕にも、先輩にも時間が必要だと思うし、何よりもガオちゃんが隣にいる。


「ただな、健太郎。どういう返事をするにしても、ちゃんと月曜日までに答え出しとけよ。多分、取り返しつかねぇと思うからさ。夏休みの宿題とは違うんだぜ」

「夏休みの宿題?」


 いったい何を言っているのだろう。

 と思ったら、ガオちゃんは何やら頷きながら言うのだ。


「小学校の頃。溜め込んでてヒーヒー言ってただろ? 間に合わなくて、怒られたりさ」

「それはガオちゃんだろ? 俺は間に合ってたよ。ガオちゃんに宿題見せてたじゃん」

「そうだっけ?」

「そうだよ。自由研究も丸写しだったからバレて、俺まで怒られたことはあったけど」


 と、そこまで言葉を発した瞬間、昨日の田中々が去り際に残した言葉が浮かんで来て、僕は再び冷静さを失った。

 先輩が去った後の事。僕と田中々が一緒の傘に入り、帰るために歩き始めた時の事だ。


『間に合って、良かった』


 あの時、確かに田中々はそう言っていたように思える。

 間に合った?

 何に間に合ったのだろうかと考えたけれど、それは一つしか思い当たることがない。

 それは、傘を持って僕と先輩の前に現れた事だ。

 僕が先輩の告白に対して返事を出す前に、駆け付けられたと言う事だ。

 間に合ったと言うのは、それ以外に考えられない。


 しかし、だ。

 どうにも不気味に思えるのは、僕と先輩があの場所にいたと言う事が、どうして田中々に分かったかと言う事である。

 あの場所はビルの色や看板に埋もれていて、大通りから見ても目立たないような入り口だった。

 注意深く見ていないと気づかずに素通りするほど存在感が無い。

 ましてや、雨で視界も相当悪かったはずだ。

 僕が先輩を探し当てられたのは本当にラッキーだったのだと、今でもそう思うくらいである。


 だとすれば、僕の後をこっそり付けていたとしか考えられない。

 だが、そんなことが可能なのだろうか。

 僕には付けられていたと言う自覚がまず無い。

 喫茶店を出た時も、先輩が宮井山に暴言を吐かれた時も、走り出した先輩を追っていた時もだ。

 そもそも、雨の中でほとんど全力に近い形で走っていた僕の――条件さえよければ50メートルを6秒台前半で走る男子の後ろをつけるなんて事が、あの田中々に出来るとは思えないのだ。

 あの雨では、少しでも距離が離れてしまえば見失ってしまっていただろう。

 なので、僕の後を付けてあの場所に辿り着いたと言う可能性は低く思える。


 いや、それよりも、と僕は思う。

 田中々は、どうしてに現れたのだろうか。

 それも、どう見ても買ったばかりにしか見えない傘を持って。

 田中々は僕と一緒に八束駅に来たので、僕が傘を持っていることを知っていたはずなのだ。

 僕が傘を投げて捨ててしまった事、それから先輩と僕が合流した事を知っていなければ、新品の傘を持って来るはずが無い。

 さらに言うと、僕と先輩の話の内容まで知っていなければ、「間に合った」などと言う言葉を言うはずが無いのだ。


 いったい、どう言う事なのだろうか。

 考えれば考えるほど分からない。


 と、考え事をしながら自転車を漕いでいた自分に気づいて、顔を上げた。

 ガオちゃんの存在を忘れるほど、夢中で考えてしまっていたのだ。

 まずいっと、ガオちゃんの顔を見る。と、湿った風が吹いた。

 どうやら開けた場所へ出たらしい。

 あの治水緑地とか言う、草に囲まれた大きな池がある場所だ。

 未だにこの場所がどういう場所なのかを僕は知らないし、知らないで困ることは、きっとこの先も無いのだろう。

 治水緑地の池から流れ、学校を経由しながら駅方面へと続く小川を想いながら、少しだけ目頭が滲むのを感じた。

 いつかのあの春、様々な人たちと出会ったあの日に、ガオちゃんや田中々と自転車を押しながら歩いたことを思い出したのだ。


 あの日、ガオちゃんと再会した。

 伊藤巻が渋谷塚に殴られた事に憤った僕と田中々がついつい声を上げてしまい、説教を受ける羽目になった。

 悪そうな男に絡まれていた内野之と武雅の間に入って、何故か全員分のたこ焼きを僕が買う事になった。

 薬師谷先輩から伊藤巻と歌玉を救えずに後悔することにもなったが、あの日に戻れるならば、僕はきっと二人を助けたいと思う。……そんな寂しく、むなしい想いも描いていた。


 だが、どんなに思い焦がれても、遠い日々は戻らない。

 殺人事件は起きてしまった。

 伊藤巻も、笹山村さんも、この世界のどこを探してもいないのだ。

 この後の人生で、僕は笑って過ごせる気がしない。

 きっと、ふとした瞬間に思い出すに違いないのだ。

 かつてあった楽しかった日々と、失ってしまった友達の顔と声を。


 ……涙が流れそうになり、首を振る。

 笑えなくても、今は泣くわけにはいかない。

 治水緑地の周囲には人が何人もいる。

 虫取りでもするのか、網を持った何人かの子供が遠くに見えたし、近くには散歩でもしているのか、ゆったりと歩いている男性や女性の姿も見える。

 涙を見せれば、隣で並走している一番の友達も心配するだろう。


 だが、ガオちゃんが「あっ」と声を上げ、自転車を止めた。


「どうしたの? ガオちゃん」


 僕は自転車を止めて、ガオちゃんの顔を見る。

 が、ガオちゃんが自転車を止めた理由はすぐに分かった。


「……宝田君? カオちゃん?」


 声を聞いて振り返ると、そこには、買い物帰りなのかビニール袋を下げたクラスメイト――内野之優子の姿があったのだ。

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