2000年 6月9日 金曜日

第26話 雨は匂い立ち、新郷禄先輩は語る

 翌日の6月9日は朝から雨が降っていた。


 梅雨の季節の到来である。

 僕の最寄駅から3駅離れた八束駅には、電車で行くには近すぎて、自転車で行くには少し遠い。

 自転車で行くにしても、雨は少し厄介だと憂鬱になった。


 しかし、行くと約束したからには行かなくてはならない。

 6月9日の午前。

 僕は八束駅まで自転車で行くために、家を出た。


 しかし――


「おはようございます。健太郎君」


 自転車に乗った田中々彼方が、昨日と同じように、自宅前で待機していた。

 昨日と違う事と言えば、田中々が傘を手に持っている事だろう。


「田中々、何で」

「今日は、健太郎君と出かけたくて。八束駅の方に行きませんか?」


 その言動は少し――いや、かなり怖かった。

 いったい、何がどうなって、田中々は八束駅の方に僕と出かけたいなんて言うのだろうか。

 昨日の新郷禄先輩の囁きは、距離的に見ても、田中々に聞かれていたとは考えづらい。


「田中々。今日は用事があるんだ。悪いけど」


 言いかけたところで、田中々が遮るようにして、言って来る。


「じゃあ、そこに付いて行っても良いですか?」


 かなり困った。

 新郷禄先輩は田中々を連れてこない様にと言っていた。

 多分、僕だけに話したいことがあるのだろう。


「それは、ちょっと」

「付いていくだけです。もしお邪魔なら、用事が終わるまで近くで待っていても構いません。それでもダメですか?」


 ダメだと、言いづらい。


「じゃあ、良いけど。八束駅で人と会うんだ。終わるまで近くで待っててくれる?」

「はい」


 田中々はそう言うと、自転車を漕ぎだした僕の後ろを付いてきた。

 とは言え、雨が降っている。

 傘を持ちながら漕ぐ自転車は、久しぶりで、転ばない様に集中していくうちに、田中々のことなど、気にならなくなっていた。



 雨が降っていても気温は高い。

 八束駅に到着したころには、僕は汗だくになっていた。


「着きましたね、健太郎君」


 田中々はいつも通り冷静な顔をして、それでもじっとりと汗をかいていた。


「あ、ああ。でも、ちょっと早く来すぎたかな」


 僕は携帯電話に表示された時間を確認し、どうしたものかと思う。

 現在時刻、10時50分。約束は12時である。

 なんて、携帯電話の時間を確認していると、田中々から爆弾的な発言が飛び出した。


「健太郎君は、笹山村さんの事が好きだったのですか?」


 いったい、どういうつもりなのか。

 何で知っているのかと言う問いも全て吹っ飛び、僕は口ごもる。


「それは」


 好きだった。

 恋かもなんて感じたのも笹山村さんが初めてだったが、多分、あれが恋だった。


「ずっと、好きでいてあげられますか?」


 田中々は言い切る根拠でもあるのか、僕の心を見透かしているようなことを言って来る。


「……ずっと。うん。好きだったよ。だから、しばらくは」


 答えにもならない言葉を吐き、笹山村さんの事を考える。

 今も僕の心は沈んで、酷く悲しんでいる。

 でも、死んだ彼女の顔を思い出そうとすると、あの日の夜の闇の中に消えるように、僕の記憶から少しずつぼやけていくのだ。


 辛い記憶となった彼女の死に顔を、無意識的に忘れようとしているのだろうか。

 笑った顔も、恥じらっていた顔も、僕の名前を呼ぶ声も、今はまだ思い出せるのだけれど、いつか、完全に忘れてしまう時が来るのだろうか。

 僕は笹山村さんの事を、ずっと忘れずにいられるだろうか。


 そうしてしばらく、僕は感傷に浸り、田中々は黙っていた。

 時は進み、時計の針は11時半を指す。


「じゃあ、そろそろ行くよ。田中々は別の所で待っててよ。なるべく、人がたくさんいるところで」

「はい。それでは、あちらの喫茶店で冷たいコーヒーでも飲んでいます。終わったら、来てくださいね」


 そう言った田中々は、自分で指さした喫茶店へ入っていった。

 それから数分後。

 八束駅の改札に、新郷禄先輩が現れた。


「早いわね、健太郎」

「新郷禄先輩も」


 新郷禄先輩は、今日も綺麗だった。

 雨の中の長い黒髪は、雨の中で輝いて見える。


「それじゃあ、どこかで話しましょう。お昼は食べた?」

「いえ、まだです」

「じゃあ、そうね。あそこの喫茶店なんかどうかしら」


 それはまずい。

 先輩が指したのは、田中々の入った喫茶店だ。

 あの店に入るわけにはいかない。


「いや、えっと、違う店がいいかな」

「どうして?」

「なんとなく」


 理由なんてとっさに思いつけない。

 ただ、新郷禄先輩はフーンと僕の顔を見た。


「変なことを言うのね。でも私、あそこの喫茶店のコーヒーとサンドイッチが好きなの。ご馳走してあげるから、行きましょう」


 正直、どうすれば他の店に誘導できるかなんて、まるで考え付かない。

 ただただ、頭の中の知識を総動員して何かを言おうとした。が、新郷禄先輩が僕が何かを言うより早く、歩いて行ってしまった。


「健太郎。傘を持っているなら、さして」

「は、はい」


 僕は慌てて傘を開き、新郷禄先輩の隣を歩く。

 心なしか、ドキドキしてしまった。

 雨の臭いに混じって、新郷禄先輩の綺麗な匂いが、香って来ているのだ。

 至近距離にある先輩の肌から、うっすらと空中に染み出ているような体温の気配も感じる。


「ありがとう、健太郎。ご苦労様」


 新郷禄先輩はそう言うと、傘立てに傘をしまう僕を置いて、店へと入っていった。

 僕は追いかける。

 間違って、田中々と鉢合わせしたら、非常に気まずいのだ。

 ドアの鈴がカランコロンと鳴り、店員の「いらっしゃいませ」の声が響く。


「健太郎。この席にしましょう」


 先輩が軽快な足取りで歩き、席に座る。

 非常にまずい、と僕は思った。

 それは4人席のテーブルだったが、別にスペースが広すぎるとか、そう言う文句があるわけではない。

 田中々だ。

 こともあろうか、新郷禄先輩が座った椅子の後ろに、田中々が座ってアイスコーヒーを飲んでいるのだ。


「どうしたの?」


 新郷禄先輩は、田中々に気づいていないようだったが、これを不幸中の幸いと呼んでも良いのだろうか。

 どうすることも出来ない僕は、とりあえず席に座った。


「ご注文は?」


 店員が来ると、先輩はメニューも見ずに言う。


「アイスコーヒーとサンドイッチを。健太郎、ここはオムライスも、スパゲッティも美味しいよ」

「じゃあ、えっと、アイスコーヒーとナポリタンで」


 店員はありがとうございますと言うと、注文を繰り返し、店の奥へと歩いていく。


「話しても良いかしら」

「え、ええ。はい」

「ありがとう。……何から話そうかしら」


 新郷禄先輩は数秒考えこんだ後、言う。


「まず確認なのだけれど、私たちの集まりがどんな集まりか、健太郎は知っていたの?」

「いえ、歌玉からも、伊藤巻からも聞いてないですけど」

「そう。そうよね」


 新郷禄先輩は静かに頷いた。


「あの集まりは、最初は私と薬師谷悦子だけだった。それから、まだ中学生だった木場下きばした今井間いまいまを入れたの。私が一年生の時だから、二年前になるわね」


 木場下と今井間。

 昨日、新郷禄先輩を見捨てて逃げたとかいう二年生の先輩たちだ。


「あの、木場下先輩と今井間先輩は、本当に新郷禄先輩を置いて逃げたんですか?」

「ええ。にわかには信じられないけれど、謝罪の連絡が来たわ。でも、あの二人はもう良いの。私が想像してた通り、怖がっていたから」


 それは新郷禄先輩の怒りを買ったのではと言う恐れだったのではとも思うが、やはり殺人事件のターゲットになりうる可能性の高い身としてはあまり外に出歩きたくもないし、危険に首を突っ込むのも怖がってしまっていたのだろう。


「話がそれたわね」

「すみません」


 今度はこちらから聞いてみることにした。


「何の集まりだったんです?」


 僕の質問に、新郷禄先輩はうつむいて黙った。


「あの、話しづらいですか?」

「ええ。勇気がいるわ。でも、話したい。その前に、もう一度確認しても良い? 私が何をしていても、私のそばにいてくれる?」


 そんなの、話にもよる。

 だけど、決めたんだ。

 僕は、新郷禄先輩の助けになりたいと。

 僕は頷いて、言った。


「はい。途中で逃げたりはしません」

「ありがとう」

「何をする集まりだったんですか?」

「お小遣い稼ぎ」


 新郷禄先輩はポツリと言った。


「お小遣い稼ぎ?」

「特定の男性グループを顧客とした、援助交際をするグループよ」


 流石にそれは想像できていなかった。

 伊藤巻や歌玉、笹山村さんが薬師谷にさせられていた、僕の大嫌いな言葉だったのだ。

 僕が黙ったまま何も言えないでいると、新郷禄先輩は言った。


「誤解しないでいて欲しいのだけれど、伊藤巻と歌玉は、食事だとか、そういうのに付き合うだけの本当にちょっとしたお小遣い稼ぎだけのつもりだったのよ。ホテルに行ったりとかは無しと言う話で仲間に迎えたの。あの子たちは薬師谷に無理やりさせられていた」

「え、ええ。分かります。じゃなかったら」


あたしだって、好きな男の子がいたんだよ! あたしだって、したくなかったよ、こんなこと! なのに、薬師谷先輩が……!』


 伊藤巻があんなことを言うはずがない。


「それでも、失望した? 流石にダメよね、こんなの。これ以上聞きたくないのなら、それでも良いわ」

「いえ、聞かせてください」


 僕は言う。

 新郷禄先輩の顔を見れば、実に彼女らしくない表情を浮かべていたのだ。

 それは不安や、悲しみ。そして、絶望。

 今、僕が突き放すようなことを言えば、彼女は本当に一人になってしまうだろう。


「大丈夫です」

「良いの?」

「はい」


 新郷禄先輩はようやく、安心したようだった。


「話してください。俺は、先輩のことが知りたい」


 僕の言葉を聞いた先輩は静かに頷き、話を続けた。

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