第10話 夢川田葵は僕の敵

 それは丸い眼鏡をかけた女子であった。

 髪は二つのおさげを肩へ垂らした、真面目を絵にかいたような髪型の女の子。


 鼻が小さく、目は大きい。

 しかし、今の表情は完全に怒れる女子高生のそれである。

 そしてその顔は確かに見覚えがあった。

 うちのクラス、1年2組の女子出席番号最後の19番、夢川田ゆめかわだあおいだ。


「夢川田、さん?」

「私の名前、憶えてたのね。あなたに名前を覚えられるなんて、不愉快ですけど」


 いきなりひどい。

 いや、そもそも殴られた時点で相当酷いのだけれど。

 何だ、こいつは。僕に何か個人的な恨みでもあるのか?


「で、宝田君。その顔は何? 文句でもあるの? 図書室では静かにしなさいってことくらい、言わなきゃ分からない? 私、何か間違ってる?」


 うん。それは間違ってない。

 確かに図書室なので静かにしろと言うのは、何の曇りもない正論であり、間違ってはいない。

 だけど、だからと言っていきなり殴って来るのは正しい事なのだろうか?

 と言うか、僕はあんまり大きな声で喋っていない。

 あの智恵理とか呼ばれていた女子がうるさかったのだ。


 考えれば考えるほど、叩かれたのが理不尽に感じた。

 せめて、一言苦情を言わなければなるまい。


「夢川田さん。殴ったのは、何で?」

「何で殴ったかですって? もちろん、この本で殴りました」


 手に持ってる事典みたいな分厚い本をひけらかす夢川田。

 そう言うことを聞いているのではないし、本は物理で人を殴る鈍器でもない。

 と言うか、よく見たら本当に辞典だった。そりゃ痛いよ。

 いや、そんなことは良い。


「お、俺は殴った理由を聞いてるんですけど」

「理由? 図書室で静かにしないかったからです。二度も言わせないで」


 ……だ、ダメだ。

 僕の頭を叩いて良い理由になってないし、これじゃ堂々巡りだ。


 この夢川田は、図書室で騒ぐ者に罰を与えることを正義と信じる狂信者なのか?

 正直、話が通じる気がしない。

 口より先に手が出るガオちゃんも相当ひどいと思っていたが、曲げない持論と共に殴ってくる夢川田は、数倍厄介に感じる。


「俺がいったい、何をしたって言うんだよ」

「だから、図書室で騒いでたでしょ?」


 それはもう良い。

 と、思っていたら、夢川田が軽蔑の目を向けながら言ってきた。


「あのさぁ。何回も同じことを説明させないで。この程度の事を三回も説明しなきゃダメだなんて、あなた馬鹿なんじゃないの?」


 ……こいつ。

 平和を愛する僕だけれど、さすがに文句を言っても良い気がしてきた。

 下手をすれば取っ組み合いの喧嘩になるかもしれないけれど、かまうもんか。


「馬鹿だなんて、いくら何でもちょっとひど」

「待ってください」


 僕が何かを言おうとしたら、笹山村さんが頭を下げて遮った。


「あ、あの、ごめんなさい夢川田さん。違うんです。私のせいなんです」

「え? どういうこと? 笹山村さん」


 問いただす夢川田葵。

 しかし、すかさず会話に参入して来たのは、それまで黙っていた、智恵理ちえりとか言う見知らぬ女子。


「その男がこの子をナンパしてたんです!」

「何でそうなるッ!」


 叫んでしまった。

 このタイミングで何てことを言うのか。

 話がややこしくなるので、やめていただきたい。


「最低……」


 案の定、こじれた。

 夢川田が軽蔑の目を向けて来る。


「ち、違う。俺は」

「宝田。あんた、勘違いしてんじゃないの?」

「勘違い? 何が?」

「あんた、自分が特別だとでも思ってるでしょ」


 それは思ってますが。

 でも、正直に言うとまたうるさくなると思って、とりあえず黙った。

 そしたら夢川田はフンッと鼻息も荒く言葉を続けてくる。


「あんた、目障りなのよ。クラスでも女の子にばっかり囲まれて、モテモテ男のつもり? で、すぐ新しい女の子にナンパ? 昨日は教師に逆らうし、暴れてる大学生の男の人と殴り合ったとかも聞いたけど」


 誤解である。

 正直、女子より男子の友達が欲しいし、ナンパなんかしたこともない。

 殴り合いをしたこともないし、もし誰かと殴り合いになったとしても、僕が一方的にボコボコにされるだけになるのは目に見えている。


 だいたい、昨日は交渉で平和的に解決できたんだぞ?


 だが、もはや僕が何を言ったとしても、夢川田は聞いてくれないだろう。

 このまま、徹底的に罵詈雑言を聞いていなければならないのかと思うと悲しくなる。

 しかし、そんな絶望していた僕を救ってくれたのは、やっぱり笹山村さんだった。


「あの、本当に違うんです。智恵理ちゃん、夢川田さん、本当にごめんなさい」


 笹山村さんが、急に僕の手を握って来た。

 いったい何事だ。

 焦った僕だったが、笹山村さんが「逃げよう、宝田君」なんて小さく言いながらグイグイと手を引っ張って来るので、彼女の案に従うことにした。


「ちょっと、宝田君。どこ行くのよ」

「悪いんだけど、夢川田さん。笹山村さんが話があるみたいで」


 図書室を出ながら、僕は僕の手をぎゅっと握る笹山村さんの細い指や、小さな掌を感じて、ずっとドキドキしていた。

 そして――


「ちょ、笹山村さん、待って。ストップ、ストップ」


 図書室を脱出した僕らは、廊下の隅で立ち止まると、座り込んだ。

 笹山村さんは苦しそうにうなだれている。

 きっと、運動も不得意なのだろう。

 息も絶え絶えの様子だった。


「大丈夫?」

「ご、ごめんなさい。宝田君。迷惑をかけてしまって。それに強引に連れて来ちゃって。ああいう空気だと、逃げるしかないかなって思って、私……」

「笹山村さんが悪いわけじゃないよ」


 もちろんそうだし、悪くないと言えば僕も大して悪くない。

 けれど、泣きそうな顔になっている笹山村さんを見て、いたたまれない気持ちになった。

 それでも笹山村さんは他人への気配りに余念がないらしい。


「智恵理ちゃんは――あ、あの子は無範むはん智恵理ちえりって言うんですけど、悪い子じゃないんです。ただ、ちょっと、私が男子といると人が変わるって言うか。普段はもっと、喋りやすいんですけど」

「そうなんだ」


 聞きながら、ほんとなのかと疑問が浮かぶ。

 でも、まぁ、笹山村さんが言うのならそうなのだろう。

 友達へのフォローを忘れない笹山村さんに好感を持った。


「笹山村さんのことを大事にし過ぎてるのかな。でも、まぁ、そういう事もあるよね、人間だもの」

「……宝田君って、優しい人ですよね」

「え?」

「私、図書室に来る前に優子ちゃん、内野之さんから詳しく聞きました。昼休みに聞こえてたことが気になったので。そしたら昨日も大活躍だったって」


 あれを聞かれていたのかと、ちょっと恥ずかしくなった。

 ただ、どういう経緯で夢川田にああいう内容で伝わったのかを思うと、ちょっと怖い気もする。

 うん。一応、笹山村さんには言っておこう。


「誓って言うけど殴り合いはしてないからね」

「はい。宝田君は誰かを殴ったり出来る人じゃないですよね。優しいもん。話してたら、そういう人じゃないってわかるから」


 笹山村さんは柔らかに笑う。

 それがとても可愛らしくて、可憐で、儚げで、僕はついつい見つめてしまった。

 すると、笹山村さんは言うのだ。


「あの、宝田君。急にこんなこと聞くと、変な子だって思うかもしれないけど……。って信じますか?」

「運命?」

「例えば未来で起きる事とか、将来結婚する人とか、生涯の友達とかもあらかじめ決まっていて、それはもう、すでにどこかで出会ってたりするんです」

「うーん」

「今の宝田君には、そういう事を感じたりする人、いますか?」


 正直、考えたこともなかった。


「私は、信じてます。困ってる時に助けに来てくれる王子様みたいな人とか。もう、会ってるかもしれないけど」


 だいぶ夢見がちだな、なんて思ったけれど、僕だって自分が特別だと思うからこそ今の僕があるので、笑うことは出来ない。


「うん。すごく素敵だと思うよ」

「宝田君ならそう言ってくれると思っていました」


 笹山村さんはそう言うと、思い出したかのように言葉を続けた。


「そう言えば伊藤巻さんと歌玉さんとは仲が良いんですか?」

「まぁ、そこそこね」

「そうなんですね。あの、実は昨日の渋谷塚先生が二人に怒ってた時に言ってた、新郷禄しんごうろく先輩って人は、私の憧れなんです。新郷禄先輩が進学してたから、私もこの学校を受験して」

「憧れ?」


 瞬間、脳裏に薬師谷先輩のものすごい怖い恫喝を思い出して、震えた。

 あの『いちいち新郷禄に断り入れないと何も出来ねぇのかよ、伊藤巻!』と激高した時の薬師谷先輩は恐怖そのものだった。


「どうしました?」

「あ、いや。どういう人なのかなって。新郷禄先輩って伊藤巻さんと歌玉さんと仲の良い先輩なんでしょ?」


 あの二人の先輩と言うと、薬師谷先輩みたいな怖い人のイメージしかなかったので、笹山村さんが憧れると言うのはあまり結びつかない。

 だが、笹山村さんは静かに語った。


「私と同じ中学の先輩で、綺麗な人なんです、とても。女の私でも、見とれちゃうくらい。後、絵とか、作文とか、いろんな物で賞を取ってたりしてて……伊藤巻さんなんかも昔はすごかったらしいんですけど」

「伊藤巻さんが?」

「知りませんか? 小さい頃、ピアノか何かで神童だって言われてたみたいで。事故で怪我をしてピアノは止められたらしいんだけど」


 知らない過去だった。

 ギャルっぽい見た目からは想像がつかない経歴である。

 いや、怪我で断念したからこそ、今の伊藤巻がいるのかもしれないけれど。


「私、伊藤巻さん達と仲良く出来るかな。仲良く、なりたいな」


 そう言った笹山村さんの顔は不安そうにも見えたが、どこか期待しているようにも見えた。



 少しして笹山村さんは帰り、僕は大変なことを思い出していた。

 田中々を放置していたことである。

 田中々の事なので、きっと図書室で今も教訓本を探しているに違いない。

 そう思った僕は、再び図書室に戻ることにした。


 下手をすると、夢川田や、あの無範智恵理とか言う失礼な奴が残っているかもしれない場所に。

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