特別なあなたへ

秋田川緑

第1話 あなたがくれた特別なキャンディ。それは甘くてクリーミィで、私は15歳でした。

 時は西暦2000年。

 ノストラダムスは世界滅亡の予言に失敗し、僕は二度と戻れない日常があった中学校を卒業して高校生になった。

 高校一年生の春である。


 新しい制服に袖を通せば、新しい自分になれた気がして心が弾み、ピカピカの革靴を履いて玄関を出れば、目に映る西暦2000年の世界にワクワクした。

 視線を動かせば、世紀末にあった退廃の色が新しい希望の色へ変わっていく。


 世界はこれからも滅びない。

 空は青く、陽の光に彩られた春の風の中を、どこまでも歩いて行ける気がした。

 この時、僕は自分の事を漫画やアニメの主人公のような、特別な存在であるのだと感じていたのだ。


 ……しかし。


 結論を言うと、そんなことは無かった。

 風は、5月の時点で違う匂いをしていたし、何よりも……初夏から始まった一連の殺人事件で、僕は誰も守れず、誰も救うことが出来なかったのだ。

 この時に感じていた僕のおごりは、大切な人たちの死と、腐臭と、暗く濁った光の中で、すっかりぶち壊されることになったのである。


 僕は特別な人間なんかじゃない。

 もし、特別な人間であったとしても、人間と言うちっぽけな生き物に過ぎない。


 でも、それでもきっと。

 入学式数日後の駐輪場で僕が出会った少女、田中々たなかなか 彼方かなたに言わせれば、僕は今でも特別な存在なのだと思う。


――――――――――


「こんにちは」


 放課後、自転車で帰ろうとしていた矢先である。


 その少女は待ち伏せをしていたかのように現れると、抑揚よくようの無い声で話しかけながら、手を差し出してきた。


健太郎けんたろう君にこれをあげます」


 4月の爽やかな風が僕らの隣を通り抜ける。

 その少女が僕に話しかけているのは明らかだった。

 駐輪場には僕しかいないし、僕の名前も健太郎なのだ。


 念のためにっと、周囲を見回してみたが、やはり駐輪場には僕と少女しかいない。

 差し出された少女の手は握られていて、『あげます』と言うからには、きっと何か小さな物が握られているのだろう。

 いきなり異性に話しかけられて緊張もしたが、同時に、異性から突然にプレゼントをもらえる自分は、特別な存在なのだと感じていた。


 しかし、彼女はどうして僕の名前を知っているのだろうか。

 それを考えれば、のん気でいる事などできない。

 僕は差し出された彼女の手を意識から外し、質問した。


「えっと、ごめん。誰だっけ?」


 少女はジッと僕の顔を見つめ、答える。


「分かりませんか?」


 知らない顔だった。

 ちょびっと小柄で髪型はふわふわのセミロング。

 眠たげな眼をしていて、なんと言うか無気力さを感じる佇まい。

 顔は可愛い。

 ただ、入学式から数日、クラスメイトの顔を覚えようと必死だった僕は、彼女が同じクラスでは無いことを知っている。


 いったい、彼女は何者だ?

 なんて考えていると、彼女はまるで心を読んでいるかのように言うのだ。


「私と健太郎君は同じクラスですよ?」

「え? あ……!」


 いきなりだけど、前言撤回する。

 言われてみれば確かに見覚えのある顔だ。

 彼女は、同じクラスの女子だった。


「健太郎君とは出席番号も、席も近いはずですが?」

「ひぃぃ! すみませんでした!」


 必死に頭を下げる。

 よくよく思い出してみれば、彼女は僕から見て右斜め前の席に座っていた。

 入学早々、自分が特別な存在だと言う自負が薄れて行った瞬間である。

 まったく、僕の記憶力なんてものは当てにならない。


「良いです。ちゃんと顔を合わせたのは、これが初めてみたいですし。頭を上げてください」


 ありがたき幸せである。

 僕が遠慮なく頭を上げさせてもらうと、彼女はコホンと咳払いを一つして、続けた。


「私の名前は田中々たなかなか。フルネームは田中々たなかなか 彼方かなたです。さぁ、これを受け取ってください」


 なるほど。

 彼女の名前は知れた。しかし、僕は動くことができない。

 脳内で『た』と『な』と『か』がインフレを起こしているのだ。


 たなかなか? たなかなかかなた?


 何だその名前は、と、大変失礼なことを考えてしまっていた。

 と言うか、何が「さぁ」なのか。

 何故、彼女が差し出しているものを僕が受け取らなければならないのか、さっぱり意味が分からない。


 風が木々の葉を揺らして、時間は流れだした汗と共に、じっとりと流れていく。

 気が付くと僕は、彼女の小さな手を見つめること以外のことが、全く出来なくなっていた。


 ただ、そうしていたのは間違いだったのかもしれない。

 業を煮やしたのか、彼女はフフンと鼻で笑いながら僕の手を取り、そのプレゼントを握らせて来たのだ。


「受け取ってください」

「こ、これは?」


 恐る恐る握らされた物を見ると、それは包装された小袋で、パッケージにはキャラメル色のキャンディが描かれていた。

 アルファベットの文字しか無いところを見ると、どうやら海外で作られた輸入品らしい。


「キャンディ?」

「そうです。これは貴方に相応ふさわしい物です。覚えていて欲しいから」


 やはり意味が分からない。

 つい口をついて「どういうこと?」と質問の言葉が出てしまったが、彼女は眠たげな表情を動かすことなく、淡々と返す。


「これから貴方の身に色々な事が起きるでしょう。でも、貴方は特別な存在なのです。それを忘れないでいて欲しい。キャンディの意味は……もし見ることが出来るのであれば、3年か4年か先で分かると思います。テレビのコマーシャルで」


 それは、実に予言めいた発言だった。

 3年後何て言ったら、僕らが高校を卒業した後の話である。

 僕らはつい先ほど高校生になったばかりだぞ?

 そんな先の未来で、いったい何が分かると言うのか。

 キャンディ自体は僕も嫌いじゃ無いので嬉しいけれど、素直に喜んで良いのだろうか。


「とりあえず今日の用事はこれだけです。また明日、教室で会いましょう。では」


 彼女は変わらずに起伏の無い声でそう言うと、ごく自然な動きで自分の自転車に跨り、駐輪場を出て行った。

 一体何だったのだろうかと僕は考えるが、もちろん、答えは出ない。

 どうすることもできない僕は、ただ、その甘くてクリーミィなキャンディを口に入れて帰ることしかできなかった。


 ――――。


 この時、彼女にドキドキしていなかったと言えば嘘になる。


 主にちょっとした恐怖を感じたので、そうなった。

 彼女は、パッと見て可愛い系の女子だったし、顔も好みではあったのだけれど、それ以上に不気味な印象を持ってしまったのである。

 会話を交わしたのはこれが初めてだったし、僕を名字では無く下の名前で呼ぶ意味も分からなかったのだから、正直かなり怖かった。


 ただ、この出会いから数年後のある日。

 テレビでそのキャンディのコマーシャルが流れて、僕は彼女を思い出すことになった。

 後日談的なエピソードになるのだけれど、彼女が予言した3年が過ぎた頃――西暦2003年か2004年か、その頃である。


『私のおじいさんがくれた初めてのキャンディ。それは、甘くてクリーミィで……』


 そのセリフが流れた時、この時舐めたキャンディの味が口いっぱいに広がった。

 コマーシャルは、とあるお爺さんが4歳の時に祖父からキャンディをもらったことを思い出し、こんな素敵なプレゼントをもらえる自分がだと感じていたと語る内容のものだ。


 その続きはこう締めくくられる。


『孫にあげるのは、もちろん同じキャンディ。なぜならば、彼もまただからです』


 その瞬間。彼女が僕にこのキャンディをくれた意味が、言葉ではなく心で理解できた。

 最も、これは僕が経験することとなった、地獄とも呼べる高校生活の後付け――彼女の発言がおおむね正しかったことへのみたいな物でしかないのだけれど。


――――――――――


 とりあえず、これが僕こと宝田たからだ健太郎けんたろうと、彼女こと田中々たなかなか彼方かなたの出会いであり、この物語の最初のエピソードである。


 もっとも、これは僕の視点から、と言う意味で、本来ならばもう少し過去から、あるいは――言い方としては酷く奇妙になるが、ずっと未来ですでに始まっていたとも言えなくはないのだけれど。


 ……これは、様々な出会いと青春の日々を駆け抜けていた僕らが巻き込まれた、この年、西暦2000年に起きた惨劇。

 田中々に言わせると、本来なら起きなかったはずの事件。


 日本の犯罪史に大きく名を残すことになる、草蒲くさかば市女子高生連続殺人事件を巡る、僕と田中々の物語である。

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