アメイジア・ワールド
冬野ゆすら
第1話 ”遺跡”①
「……なんだ、あれ……?」
道なき道を進む青年――セラスは、思わず口中で呟いた。先の尖った折れ耳に整った顔立ち。腰には短刀、手には弓。背負った矢筒や指の弓掛まで見れば、エルフの狩人を思わせる出で立ちだ。彼が辿るのは、もちろん獲物を追うための獣道である。そこそこはっきりした跡から恐らく猪だろうと予想をつけていたが、その先におかしなもの――そう、黒い蟠りとしか表現のしようがないものを見つけてしまったのだ。
どうしようかと、セラスは悩む。どう見ても避けられない位置にあるし、見た瞬間に背筋が冷えた。つまりあれは、良いものではない。見た目よりも遙かに長く生きてきた経験が、己の判断を裏打ちする。故にセラスは、弓を番えた。
(とは言え、急所……あるのか、あれ?)
弓の殺傷能力は、急所を狙えてこそである。だが蟠りにそんなものが在るとは思えず、とりあえず、矢を放ってみた。腕にはもちろん自信があるし、射抜けることも疑ってはいなかったが、まさかの一矢で霧散である。一瞬だけ固まった彼だったが、辺りを見回して気配を探る。見える範囲にも感知出来る範囲にも何もないと確認出来たので、とりあえずは矢を回収し、調べてみた。鏃は無事で、問題なく使えそうだ。今の懐具合では、1本と言えど新調は厳しいので、助かったなと思いつつも矢筒に戻しておいた。
改めて道を辿っていくうちに、ずずっ、とか、わしゃっ、とかいう音がして、セラスは足を止めた。
(――魔獣がいる山ではないと聞いたんだがな)
崖の向こうに、後ずさりして無理矢理に枝から葉を食いちぎっている動物――ヘラジカに似た魔獣、
アクリス自体は草食なのでさほど危険はないが、これがいるということは、それを狙う肉食の獣がいる可能性は高い。そうなると狙った猪もいるかどうかは怪しくなってくる。子供たちが山に入ると聞いたから、もしかしたら最近移ってきたのかも知れないが、これは麓に知らせなければならないだろう。そうなると、証拠としてあれを狩らなければならない。肉は美味いから、猪の代わりになる獲物としては上々だ。問題は、非常な俊足だということ。距離もあるから、外したら逃げられるのは確実だ。
(本来は寝場所を探して罠を仕掛けるんだが……そこまではなぁ……。正面から見たくないし)
本音を漏らしながら、セラスは弓を構えた。風の音を聞き、アクリスの動きに合わせて狙いをつける。
肥大した上唇のために、後ずさりして唇をめくりながらでないと草を食べられないその習性は、頭を狙うにはとても楽だ。けれど関節のない後ろ足が、驚くほどの俊足を見せるので、狙われていることに気づいたらもう、矢は当たらない。だから本来は、寝場所を探し、罠を仕掛ける。しゃがむと立ち上がるのが困難であるため、木に寄りかかって寝る習性を利用し、その支えの木が折れるようにしておくのだ。だがもちろん、その木を探し出すのは簡単ではない。目の前にいるのだから、一か八かで射貫けばいい。
音がすればアクリスは気づく。だからセラスはそのときを待つ。ざわざわと木の葉擦れの音を遠くに聞いて、弓を更に引き絞る。何も考えず、ただ視線だけを、狙いだけを動かさず――その風に己を撫でられて、矢を放つ。
風の中を飛ぶ矢は狙い過たず、しかし刹那の間に
「
即時に放った追跡魔法が、跳ぶように逃げていく
「――いつからだ、これは」
ぼそりと呟いた声が反響する。相当に深い洞窟のようだと後を振り向くが、そこには木漏れ日の差し込む通路が続いていた。空を見上げれば、遙か頭上に青い空を梳かし見ることが出来る。けれど左右を見ればそこには壁――どう考えても幻覚なのだが、いつからそれに捕らわれたのか、どれが幻覚なのかがわからない。幻覚に捕らわれた場合、取れる手段は限られる。
「
……一般に、幻覚に捕らわれた場合は解除を試みる。というか、それしかない。幻覚の中に敵が潜んでいる可能性が高いからだ。けれどセラスの場合「解除するくらいなら術者を倒した方が早い」と公言して憚らない。
「なんで追いかけたかな……」
己に苦笑するのは、追いつけるはずがないとわかっていたためだ。手の届く距離からですら間に合わない俊足に、あれほど離れた距離から追いすがるとか、無理な話だ。本来なら
さてどうするかと、セラスは周囲を見渡した。未だに幻影は解けていない。触れればそこは木でしかなくて、そのくせ向こう側へ行ける気がしないし、行こうと言う気にもならない。先の透視図では、そこに通路があった。だから踏み込めると分かっているのに、どうしても認識が邪魔をするようだ。
それならばと、セラスは弓を構える。
「
硝子のような矢が、弓に番えられた状態で現れた。セラスはそれを確認することなく更に引き、徐に放つ。放たれた矢は、目映い光を放ちながら空間を歪めるかのように飛んでいき、やがて一際大きく輝いて、消えた。同時に身体が揺さぶられ、歪んだ空間が戻っていく。考えるよりも先に、セラスは飛び込んだ。背後でガシャンと何かが音を立て、跳び退りながら振り向けばそこにはただ、壁が立ちはだかっていた。警戒しつつも触れてみれば、そこからはただ、硬質な手触りが返される。
「
念のために再度放った探査魔法でも、そこには壁があるのみだ。考えられるのは、先の音――あれが壁を生み出したか何か、そういう音だったのかと言うことか。それ以上は透視図と通路が重なることも確認出来たので、探査は解いておく。
無機質な壁――さほど高くもない天井と、奥へ続く通路のようだ。どんな仕組みなのか、壁を走る模様のような線が淡く光り、通路全体を照らしている。途中で途切れているように見えるのは、そこに分かれ道でもあるのだろうか。来た道を防がれた以上、先へ進むしかないのだが。
「――”遺跡”か。なんでまたこんなところに」
苦虫をかみ潰したかのような顔に本人が気づかぬまま、セラスは呟いた。
”遺跡”。それは「過去に存在した文明の名残」とされる、数々の建築物のことである。失われた国々の史跡とは一線を画し、魔法文明が発達した現代に於いても解明の出来ないそれらを、人々は”遺跡”と呼ぶ。人里近くに見つかることもあれば、深山幽谷の奥に見つかることもある。湖の底にあるという噂だけが残されていることもあった。何一つとして似通ったもののないそれらが”遺跡”と呼ばれる理由はただ一つ、「幻影で守られた地である」ということ。
大概の者は幻惑に惑わされ、そこが”遺跡”であることにも気づかない。気づいても幻惑を打ち破る手段がなければ進めないし、内部が広すぎて、把握仕切れない。更には彷徨う魔物や開かぬ扉、そして何よりも、全く見つからない「価値あるもの」。それらの理由が相まって、物好きな学者たち以外には顧みられない地となっている。
「――史跡だったら、よかったんだがな」
史跡には、不思議と人の息づかいが感じられるのだ。その地に生きた人々に思いを馳せながら、しばしの時を過ごす。不思議とそれが性に合い、そうして長い時を過ごしてきた。もちろん史跡である以上、その地で暮らす者はいない。だから魔物の巣窟となることも珍しくなくて、それを駆除したりしていたら、いつの間にか”魔狩人”の二つ名がついていたりもしたが、些細なことだ。
けれど”遺跡”には、それがない。間違いなく人工物なのに、幻影で守られるほど重要なものであるはずなのに、何かが生きた気配が何一つとして感じられない――幾つかの”遺跡”を巡ったところでそう結論づけて、それ以降は立ち寄ることすらしなくなった。だから”遺跡”に入ったのは、ずいぶんと久々だ。
立ち止まっていても埒があかぬとセラスは歩き出す。時折目の前を小さな何かが横切ったり、己を背後から抜いていったりする何かがいるが、手は出さない。それらが”遺跡”に棲む魔物であって、手を出さなければ何もしてこないものだと言うことは知っていた。枝道へ入っていくそれに釣られて覗いてみるが、奥までは燈が灯っていないのか、見えなくなっていく。扉のない小部屋には、机と椅子が並べられていた。まるで、人が住んでいるかのようだ。
「”遺跡”に棲む民……東の果ての国だったか」
”遺跡”を国土とした風変わりな国があると、噂で聞いたことがあった。巨大な汽水湖に浮かぶ島が”遺跡”そのものであり、周囲を砂漠に囲まれているが為に陸路は厳しく、代わりに海路を発達させた交易の国。エルフに似た耳を持つ彼らが扱う品は、調味料から工芸品まで多岐に渡り、特に淡い緑の絹は驚くほどの値がつけられる。実際、セラスもそれを見たことはあった。納得するだけの美しさだったと憶えている。彼の国の品だと、幾つかの調味料は今も持ち歩いているくらいなのに、名前を思い出すことが出来なかった。
興味が無い…わけではない。わざわざ行こうとは思わないが、世界を巡るうちには辿り着くだろうし、近くへ行ったら立ち寄るのもいいだろうとも考えている。ただ積極的に行くとなると海路しかないから、あまり本気では考えていない、それだけだ。
そんな彼の行く手に、場違いなものが立ちはだかった。ちょっとした貴族の家で、堂々と執務室を守っていてもおかしくなさそうな、重厚な造りの扉である。
「……いや、うん。歩くのに厭きたとは、確かに思ったけどな?」
歩いて来た歩数と角度を元にして、脳裏に地図を描く。地図なんてものを持っていると、各国への入出国時に面倒が多いので、彼は持ち歩かない。近隣の様子なら
さてどうするか。流石にいきなり出て来た扉に触れる蛮勇は持ち合わせていないし、そもそもこの扉、どうやって開けるのかがわからない。背後からの風を感じながらそんなことを考えつつ、セラスは矢を取った。弓に番え、振り向きざまに一射――十歩ほどの距離で、初めて遭遇する魔物が地に串刺しとなる。色といい気配といい、これまでに行く手を譲ってくれた何かとは明らかに別の物だ。その進路は、間違いなくセラスの首を狙っていた。
ほぼ同時に、けたたましい音が鳴り響き、通路が赤く明滅しはじめた。微かな音と揺れを感じさせながら、天井から板が落ちて来た道を防ぎ来る。扉はいつの間にか、彼を招くかのように開かれていた。
(あれに閉じ込められるよりマシだな)
即時、進むしかないとセラスは決めた。罠だろうが何だろうが、あれに閉じ込められるよりは先がある。走り込んだ後ろで扉が閉まる音を聞きながら、セラスは弓を構えた。回り込んだか最初から潜んでいたのか、先に射落とした、毛色の違うあの魔物だ。蝙蝠の仲間なのか、その軌跡は読みづらい。
(だが、それだけだ)
動きを読み、矢を放つ。間違いなく当たる軌跡を矢が描き、しかし刺さらず、炎が上がった。
「え」
驚きはしたが、考察するよりも先に二の矢を放つ。これは炎を上げると同時に炭と化したが、その直前に蝙蝠の目が光ったことにセラスは気づいた。続けて放った三の矢、四の矢。三の矢は光る線に迎え撃たれて炎と化したが、その隙を突いた四の矢は魔物に当たった。じりりりりと痙攣を起こすかのようなそれを隙無く睨め付けて――火花を散らして落ちたそれに、彼は思わず目を瞬かせる。
「……なんだ、これ……
散っているのはどう見ても火花である。しかも、火打ち石で出るよりよほど強い光だ。よくよく見れば、魔物は金属で出来ている。他にはいないかと周囲を見るが、どうやら潜んでいたのはこれだけらしい。目が光ったように見えたので確認したかったが、火花が散る中に手を出す気はないので先に周囲を探る。いつの間にか明滅は収まっていて、音も止んでいる。とりあえずは終わったようだ。
改めて見れば、明るく白い壁に囲まれた小さな部屋だ。今までの通路と違って金属質な気配はないが、椅子や机がないと言うことは通路扱いなのだろうか。
「あ、いた! ちょっと貴方! どうやってここに入ったのよ!?」
背後からかけられた声に、セラスは振り向いた。引いた弓を向けてしまったのは、気配なく現れたことによる反射的な行動だ。
奥へ続く扉、その向こうに十三、四才の少女が立っている。身なりは整っているようだが、髪は短いし、町中でもあまり見ないような服装だ。恐らくは貴族ではなく、街人だろう。そこまでを判断して、それでも弓は下ろせない。”遺跡”の中で、まして奥から、どうしてこんな少女に出会うのか。その理由は推測どころか思いつきもしないためだ。
「あー、別に大丈夫よ、怖がらなくて。危害を加えたりしないから。ただここ、使い魔が放されてるから、勝手に入られるとめんど……って、え、あれ、使い魔が壊れてる? なんで? うそ、どうやって!?」
驚いた様子で、少女がセラスを見る。彼女の視線の先には、先ほど打ち落とした機関が落ちていた。彼女の言う『使い魔』とはこれのことだろうか?
「……ねえ、それ壊したの、お兄さん?」
「え。あ、ああ。これか。ああ、私だ。…済まない、お前のものか?」
「そういうわけじゃないけど。でもそれ、普通の弓矢とかで壊せるようなものじゃないから」
敵対意思のない様子に気を抜かれ、セラスは弓を下ろした。それに気づいたのか少女が扉が出て来て、数歩を歩いたその足下でかさりと何かが音を立てる。もちろん気づいたのは少女が先で、自分の足が踏んだそれをしげしげと見ていた。黒焦げになってはいるが、形を保っているそれは、先に迎撃されて落ちた矢だ。鏃は使えそうだが、相当な高熱に晒されたようだし、果たして再生できるだろうか。出来るとしても、一度鋳つぶすしかないだろう。流石にそれは出費に見合わない。
そんなことを考えていたセラスの耳に、少女の声が飛び込む。
「……なんで落としたの?」
「え?」
「使い魔は、”遺跡”に危害を加えない人なら何もしないよ。なんでわざわざ壊しちゃったの?」
敵対したからに決まっている。そもそもが、これは自分の首を狙ってきたものと同種である。…と応えるよりも、セラスは警戒度を引き上げることにした。確かに”遺跡”の魔物はそういう特性だと言われている。実際、先に出会ったものはその通り、まったく敵対姿勢を見せなかった。けれど、……少女はこれを「壊した」と言った。つまりはそれが
「もーっ、なんでこんなの招待しちゃうのよ!? もっと賢いのを呼びなさいよっ!」
癇癪を起こしたかのように少女が一言叫ぶ。意味が分からなかったが、どうやら自分が馬鹿にされているらしい。普通ならカチンときそうなものだが、……子供の癇癪に付き合うほど、人生経験は短くない。
「貴方ももっと賢くなってよ! ”遺跡”がせっかく招待してくれたのに、なんてことするのよ! あたしがいなかったら今頃死んでるよ!? ったく誰よこんな中途半端な状態で外に出したの!? 来なさい、とにかく!」
腕を引っ張られながら、セラスは半眼になる。貴族社会で要求される最低限の礼儀作法は身につけているし、個人資産もそこそこはある。世界各国で”魔狩人”の二つ名が認知されていて、各地の言葉もある程度はわかる。それが中途半端と言われたら、いったい彼女は何を要求しているのか。それはもう、超人の類いに分類されるだろう。
しかしやはり子供相手に本気の抵抗はし辛くて、セラスは
(――何だ、この部屋……?)
一転とまでは行かないが、今までとは趣の違った部屋だった。ずらりと並んだ本棚と、そこにぎっしりと詰められた大量の本。視線を巡らせれば、これでもかと文字が書き殴られた大きな黒板が目に入る。整然と並んだ立派な書き物机には、紙やらインク壺やらが整頓された状態で置いてある。座り心地のよさそうな立派な椅子も惜しげ無く並んでいた。
そこを奥へと引っ張って行かれて、やがて目的の場所へ来たのか、少女が足を止める。
「とりあえず、戸籍作るから、これに手、置いて」
「戸籍って、何のことだ?」
「作っておけば”遺跡”に入っても攻撃されないし、擬装も外れるよ」
む、とセラスは一瞬考えた。世界を放浪している彼にとって、戸籍などあってないが如き代物だ。実は幾つかの国で名誉叙爵されているから身元保証自体は問題ないし、何処かの国に属している方が面倒事に巻き込まれやすいから、欲しいと思ったこともない。けれど、”遺跡”の擬装を抜けられるとなると別である。近寄る気はないが、迷い込むことはあるだろうし、それが本当なら悪い話ではない。だが、何故彼女にそれが出来るのか。
「ほら、早く」
「――鏡?」
「え?」
差し出された鏡に、セラスは困惑した。少女もまた、ぱちくりと目を瞬かせた。
「……鏡? に見えるの?」
「ああ。これのことだろう?」
「あ、うん…それだけど……あれ? カモフラージュが働いちゃってる?」
何のことかはわからなかったが、とりあえず言われたとおりに掌を置いてみる。一瞬の閃光がそのまま身体を抜けたように見えて――セラスの膝から力が抜けた。
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