第75話

世界記録が狙えそうな速度で着替えを済ませ、メイクや髪の乱れも整えぬまま聖とマスターのところに戻った。

マスターと聖が妙な空気になっても困ると思って慌てたのに、なんとまぁ和やかに談笑している。


「レモンチェッロって日本人が発音するのに絶対向いてないと思うんだよね。レモンチェッロ。チェッからのロが上手く言えない」

「ふふ、発音しにくいイタリア語も多いですけど、その代わりに向こうの人はハ行が苦手なんですよ」

「へぇー。じゃあニハシハジメとかどうなるの?」


カウンターに肘をついて腰掛ける聖と、手の中で黄色い瓶をもてあそぶマスター。

あれ、このふたりってこんなに仲良かったかな。なんか、すごいモヤッとする。


「アジメ・ニアーシとか呼ばれるんじゃないでしょうか」

「うははは!アジメ!かっこわる!」


「……聖、お待たせ」


振り返って穏やかに笑うと、待ってないよ、と一言。心臓が紐で縛りつけたみたいに、ぎゅうっと変な痛み方をした。心臓がチャーシューになったら聖のせいにしよう。


あぁ、聖だ。聖がいる。


「お、アジメ!髪乱れてるよ!」

「マスターうるさいです。で、なんの話してたの」

「んー、お土産話?お酒とかお菓子とかね、たくさん空輸してきたから。瑞ちゃんにもあとで渡すね」


空輸……あ、お土産か。ぽんぽんと叩かれたスーツケースに仕舞い込まれているらしい。


乱れた髪を手櫛で整えてカウンターの聖に近づくと、これまた穏やかな微笑みでこちらを見上げた。なんだろう、違和感がすごい。


一言で言うなれば、凪、だろうか。揺れることのない瞳は凪いだ海のような静けさをたたえ、まるでなにかを覆い隠しているかのようだった。


意を決して、右手を差し出す。


「帰ろう、聖」

「うん」


私の手を緩く握ったのは左手。そうするのが当たり前のようで、その実、強い意志を感じる手だった。


これは友人として繋いだ手。


ほら、女の子は仲が良ければ手も繋ぐし、ハグだってするでしょう。

そこまで思って、はっとした。


恋人になる前、たしかに私たちは友人だった。けれど、そこにはいつも聖から向けられた恋心が存在していたのだ。

恋の絡まない友人関係を、私たちは知らない。


「お疲れ様です、マスター」

「うん、お疲れ」


続けられた、上手くやんな、という言葉は正しくマスターからの激励として受け取った。

動揺はしたけれど、マスターが向けてくれた本気の情動は、たぶん嫌ではなかったから。


あーぁ、舌くらい突っ込んどけば良かったな、という一言は聞こえなかったフリ。キスしておけば良かったなんて可愛らしい言い方をしないあたりが、マスターらしくて、そして彼女らしい優しさなのだろうと、そう思う。


聖の手を握ったまま、ひとつ、頭を下げた。


ストゥルティはラテン語で愚か者たち。カランカランと鳴る扉の音をくぐる全員が、きっと愚か者なのだ。私も、聖も、マスターも。



重たいスーツケースをふたりで持ちながら、狭いビルの階段を降りていく。蛍光灯がちらちらと瞬いている。切れたら真っ暗になりそうで嫌だな。

これを持って階段を上がってきたのかと思うと、想像しただけで辟易してしまう。この重たい荷物を抱えたまま五階まで上がるのは重労働だったろう。


ふと思ったことを聞いた。


「聖、どうやってこんな時間に来たの」


今は夜中の一時をまわり、すでに電車など動いているわけがない。スーツケースを持ってきたということは、空港から直でここまで来たのだろうか。


それとも、私の退勤時間に合わせてどこかに待機していたのか。いや、それならば一度、アパートに戻る時間くらいあったはず。


そもそも、聞いていた帰国は明日の夕方だ。否、すでに日付が変わっているので、今日だけれど。日本に着いたら実家にそのまま帰るのだと言っていた。


「んー、ちょっと色々ありまして……」


ビルを出ると白いセダンが止まっていた。


ごめんね、少し待ってて、と私とスーツケースを置き去りにして、運転席に向かう。


「パパ、お待たせ。ありがとね、ちゃんと会えた。あの、友だちと帰るから。あ、うん、それは大丈夫。友だちのバイクに乗せてもらうから。夜中にごめんね、本当にありがとう。うん、今度ちゃんと、ぜんぶ話す。じゃあね、ママに宜しく」


パパ。


若い女の子たちがやっている、パパ活のパパではなく、おそらく本物のパパだ。

オレンジ色の車内灯に照らされて、聖と同じ髪色の男性が見えた。確認するようにこちらを見るので、軽く会釈だけ返しておく。


友だちのバイク、と聖は言ったけれど、私の愛車は定員一名のオンボロ原付だ。言わぬが吉。愛娘がこれから道交法違反をするだなんて、彼は微塵も思っていないだろうから。


事故にだけは気をつけます。


手を振る聖を残して、白いセダンがゆっくりと走り去っていく。


「えっと、そういうこと、です。一回実家に帰ったんだけど、無理を言ってここまで運んでもらいました。えへへ」

「……そか」


なんでわざわざ夜中に帰ってきたの。私に会いに来てくれたの。

聞きたいことは山ほどあるけれど、いま悩むべきは、この重たいスーツケースをどうやって原付に乗せるか、である。


小さな原付と大きなスーツケース。ふたりで、ああでもない、こうでもないと試行錯誤をするのは楽しかった。

そう、私も聖も、たぶんそれを楽しいと思っていた。



結局、狭いステップに無理に押し込むことで、私と聖とスーツケースを乗車させることに成功した。原付にもスーツケースにも無理をさせている。モノに意思があるのなら、私はたぶんこのふたつから大ブーイングを食らっていた。

酒が入っているらしいこのデカい荷物は、もはや子ども一人分くらいの重さはあるのではなかろうか。

今日の乗員数は、大人ふたりと子どもひとり。どう考えても積載量オーバーである。どうか今夜も、お巡りさんと遭遇しませんように。


ひとつしかない半カップのヘルメットは、今夜も聖の頭の上。定員オーバー、ノーヘル。相変わらずの道路交通法無視。

足の置き場をスーツケースにとられたので、カッコ悪いけれど足をぷらぷらと横に出したまま走る。地面にヒールを擦らないように足を上げるのはなかなかの苦行で、太ももの筋トレになるかなぁなんて考えていた。


初めて後ろに乗せた時はあんなに怖がっていたのに、今では聖も慣れたもの。腰に回された腕に少しだけ喜びを覚えた。


意外と力の強いこの腕も、背中に感じる体の柔らかさも。私よりも幾分か高い体温も。夜中の違法ツーリングを、この人がちょっぴり楽しんでいることも、私はもう知っている。

覚えてしまった。全部、私は覚えてしまった。


私たちは恋心を含めない友人関係を知らない。もともと、元に戻る、なんて術はなかったのだ。


聖へのこの気持ちが無かったとしても、私たちは"元の友人"に戻れるわけがない。


どうあっても。聖の気持ちがどこにあっても、私の気持ちがどんなものだとしても。

私たちにはもう、新しい関係を築いていくしか、この時間を続けていく術がない。


当たり前みたいに、私のアパートに"帰る"と言ってくれたことが嬉しい。

私の了承もとらずに、私のもとに押しかけてくれたことが、嬉しい。



今度こそ話をしよう。"分からない"なんてことはもうないから。今度こそ、言葉にしよう。


私は決めたの。


私は聖の友人であることも、聖の隣にいることも、諦めたりしない。


暑いくらいの背中の体温を私が感じているように、生ぬるい夏の夜風が私の髪を踊らせて聖にまとわりついていることを、もう知っているから。

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