第38話 シャングリラに行くときは1
寒い。配っている甘酒にふらふら釣られそうになるけれど、ここは「甘酒配ってるよ」「飲もうよ」「キャッキャ!」「ウフフ」をやる場面だ。我慢、我慢。
もう三日だというのに、広い境内は参拝客でごった返している。人混みが苦手だと言っていたので、初詣に誘うのは泣く泣く遠慮したというのに。
ヤバい。顔を引き締めないとすぐに崩壊する。ヤバい。
とりあえず深呼吸……
「聖、おまたせ」
「は!じ!めちゃ!」
「ふふ。新年から様子がおかしい」
あけましておめでとう、聖。首を傾げて、笑った。
はぁぁぁぁ、美。首をこてんと傾けた瞬間に星がキラキラ散らばって、宇宙のどこかで新たな惑星が生まれた。そして神すら屈服させる微笑みによって惑星に水が湧き、生命体が活動をはじめましたわ!
「聖は?」
「ううぇあ!?」
瑞ちゃんの微笑みという破壊力二十万の攻撃にも慣れてきたつもりだったけれど、数日あけたのが良くなかった。ほんの数日で慣れはリセットされたようで、横っ面叩かれて、挙句脳震盪を起こしたみたいになる。
あー、あー、えー?お姫さまが私に何かを求めていらっしゃる。かわえぇんじゃ……違う!そうじゃない。可愛いのは分かる、人類の共通認識、知らない奴はこの世界の人間じゃない。瑞ちゃんの可愛さを認めない、それすなわち罪。
そうじゃなくて!瑞ちゃんが私に何かを求めている。なにを言えばいい?なにを求めてる?
悪戯っぽい顔で笑った。
「新年の挨拶、ちょうだい」
「明けましておめでとうございます今年もどうぞよろしくお願いいたします二橋瑞様の一年が実りある豊かなものになりますことを心よりお祈り申し上げます許されることならばわたくしがその一助になれることを願っております!」
「あははははは!肺活量やば!ふふ、うん。今年もよろしく、聖」
退屈という怪物を飼っている瑞ちゃん。光すら通さぬ黒い艶髪、シミひとつない白磁の肌、鋭い瞳。冷たい空気に、白い吐息が漏れる様まで綺麗な子。
心に空白を隠した、私の好きなひと。
一月一日、朝。実家で年を越すのは久しぶりだった。
両親に付き合って遅くまで酒を飲んだせいで、目が覚めたのはギリギリ朝と呼んでも良いか微妙な時間。
ママがお雑煮を作っている。お出汁の良い匂い。
瑞ちゃんにあけましておめでとうのメッセージを送ってもいいかな、とスマートフォンを取り上げたら、数人の友人やサークルの人たちから既に何件か届いていた。
しかし、こいつらへの返信は後だ、後。お姫さま以上に大切なものなんてこの世にはない。
「あ、はぇ、えぇぇぇ……えぇぇぇぇ、行くに決まってるぅう!」
大量のメッセージから瑞ちゃんの名前を見つけ出したら、赤いマークがついていた。
『あけおめ』
『三日、初詣いかない?』
「行く決まってるぅ……!」
いや、もうシンプルイズベストな挨拶に加えて、私が泣く泣く遠慮した初詣のお誘いが本人から来ました。あぁぁ、新年から幸せすぎる。
雪に閉じ込められた宿泊所、『リスさん』の部屋で向けられたあの目を思い出す。迷うような、探るような、でも逃げていくような。
『好きだよ、聖』
ウッ……!死ぬッ……!
すぅーーーーーーー
「はぁぁぁぁ……好きが止まらない」
スマートフォンを胸に押し付けて、幸福感で張り裂けそうな体をベッドの上にゴロゴロ転がした。
瑞ちゃんに会える。瑞ちゃんに会える!瑞ちゃんに会える!!
「ママー!明後日、服貸してー!」
恋をした。
光も通さぬような流れる艶髪に。
恋をした。
シミひとつない白磁の肌に。
恋をした。
噴水の飛沫を天の祝福のように纏う姿に。
なによりも、その目に。
砥がれた刃のように鋭い光を放ちながら、その強さすら打ち消してしまいそうなほどの退屈さを湛えた目に。
大学二年の春、私以上の退屈を宿した美しい女に、私は恋をした。
あれは挫折とも言えない挫折だった。
高校時代に貯めたアルバイトの貯金と、幼少期からコツコツ積み上げたお年玉。呆れた両親の反対を押し切ってイタリアに飛んで、祖父の元に半年ほどいた。
祖父の仕事現場に着いて行っては、その関係者に自分を売り込む。自信があったのだ。私には祖父譲りの才能があって、きっとすぐに認めてもらえるって、根拠のない自信が。
すぐに形にならなくても、カメラが好きだから苦労なんていくらでもできるって。
でも、私は私を知らなかっただけだった。
どんなに写真を見せても、誰も相手にしてくれない。上手だね、とまるで幼児を相手にしているような態度で、まともに請け合ってはくれない。
カメラを仕事にしたいならまずは専門学校に行きなさい、と言った父の言葉が正解だったのだと、たった三ヶ月で気づいた。けれど、大見栄切って飛び出した身だ。三ヶ月で日本に戻るなんて恥ずかしくて出来なくて、意地だけでイタリアに残った。
十月の末だった。
祖父と懇意にしているカメラマンに教えを請おうと作品を見せたら、難しい顔をして彼は言ったのだ。
『ショー、残念だけど今の君には才能がない』と。
たしかに君は写真が上手い。構図のセンスも良いし、色使いも光や影の使い方も上手だ。でもね、君の写真はあまりにも独りよがりだ。
一流のカメラマンになれば、その人間が撮りたくて撮った写真が世間に求められる。
でもね、それは一流のカメラマンだけの話なんだ。
僕や君のお爺さんだって一流じゃない。僕らも長いことカメラに触れてきたけれど、所詮二流でしかない。
世間にカメラマンのエゴが求められるのは、一流の中の一流でね、たくさんいるカメラマンのうち、一流になれるのはほんのひと握りだ。
ショー、君にはまだ学びというものが足りない。
僕らの仕事は求められた写真を撮ること。モデルを美しく撮ること、料理を美味しそうに撮ること。求められたものを求められたとおりに撮れるようになって、三流。求められたものを求められた以上に撮れるようになって、二流。そこから先が一流だ。
最初から一流になれるような天才なんて殆どいないんだ。
残念だけど、君は天才じゃあない。
心がぽっきりと折れる音を聞いた。
今ならわかる。私にも聞き取れる丁寧なイタリア語で諭された内容を、今なら真っ直ぐに受け入れられる。あれは彼からの優しい激励だった。
けれど、あの頃の私には『お前は向いていないからやめろ』と言われたに等しかった。
カメラならイタリアで学べば良い、と言ってくれた祖父の言葉も届かず、たった半年で心折れた私は空っぽになって日本に戻った。
情けない私を待っていたのは両親の詰る言葉でも慰める言葉でもなく、お帰りという一言と、専門学校の資料。
両親はまだ応援してくれている。それは分かる、分かるはずなのに。
私には才能がないから、と捻くれた言葉を投げつけ、ギリギリのところで四年生大学に滑り込むことになったのである。
気の合う友人もできた。実家から離れた大学生活はそこそこ楽しかったけれど、それでも何かが足りない。
お気に入りのアルバムには、空っぽの写真ばかり増えていく。やっぱりカメラが好きで、やっぱり写真が好きで、それなのにふとした瞬間に気持ちが沈むのだ。
だから、奇跡みたいな瞬間だった。
噴水横に座ってシラバスを眺めているその子を見つけたとき、私は思わずシャッターを切っていた。
艶やかな黒髪、白磁の肌、鋭い瞳、組まれた足は長くて、まるで血の通わないお人形さんみたいなのに退屈そう。
消えてしまう、と。そう思った。
退屈に食われて、あの子が消えてしまう、と。
カメラの中にあの子を閉じ込めた瞬間、ぶわっと身体中の血液が沸騰して、一瞬足元がふらついた。
ばくんばくんと暴れる心臓と、液晶に切り取られたあの子。
謎の高揚感に『ヤバい薬でも使ったみたいだなぁ』なんて呑気に思ったのは、我ながら傑作である。
あの感覚がもう一度ほしくて、見かけるたびにシャッターを切る。小さな枠の中に、綺麗なあの子を閉じ込める。
私のものになり得ないお姫さまは、ファインダーの中にいるときだけは、私のものになる。
撮りたいものを撮っているだけのうちは、ただの趣味。求められたものを撮ってこそ、仕事になる。
でも、それでいいやって思えた。
だって、なによりも満たされるのだ。あの子を写真に閉じ込めるたびに、胸が疼くのだ。
カメラを仕事にして好きでもないモデルを撮るよりも、私はずっとあの子だけを撮っていたい。
撮れば撮るほど欲しくなる。なのに、撮れば撮るほど遠くなる。
欲しい。視線がほしい。頬に触れてみたい。こちらを見てほしい。名前を呼んでほしい。
欲しいのに、こんなにもあの子が欲しいのに、アルバムの写真が増えるたびに私は、ただの盗撮犯になった。
千枝梨にはストーカー扱いまでされた。
気持ち悪いことなんて分かっている。女が女に恋をした時点で、一般とはズレているのに、挙句ストーカーだ。
だけど、やめられないのだ。ファインダーからあの子の表情を眺めることも、あの子のいる景色を切り取ることも、あの子を欲しがる心をとめることもできないのだ。
初めて見つけたその日から、私はただひたすらに、あの子のことが好きで好きでたまらなかったのだと思う。
大学二年の春、私以上の退屈を宿した美しい女に、私は恋をした。
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