第37話
箸でよく分からない小魚の佃煮をつまむ。味が濃い。
黒豆、いらない。酢の物、いらない。数の子、いらない。
「あんた、好き嫌いしないで食べなさいよ……」
「美味しくないんだもん。ふたばが食べてよ」
「……あたしもいらない」
実家からさほど離れていない父方の祖父母宅。親戚一同が会した空間で、私は姉とふたりすみっこでお節料理をつまんでいる。
毎年集まる年末年始の席だが、今年も非常に退屈であった。
なにより、私はお節料理が好きではないのだ。だって、美味しくない。色とりどり、さまざまな縁起料理が詰め込まれているけれど、お子様舌な私には食べられるものが少ない。
嬉しいのは祖父が用意してくれる手打ちの蕎麦だけだ。
昨年の年末、ふたばは実家に帰らなかった。就活が忙しいから、なんて言っていたけれど、帰りたくない言い訳であることは明確だ。
年末にまで説明会や面接をやっている企業なんてブラックに決まっている。やめちまえ、と父は騒いでいた。
「ねぇ、ハジメ」
「ん?」
「…………ドライトマトあげる」
いらない。
私が実家を離れてからほとんど会うことのなかったふたばは、驚くくらい変わっていた。相変わらずぽちゃぽちゃしているが、こちらを睨むこともないし、なにより私に話しかけてくる。
いかにも気まずいです、という空気はダダ漏れているけれど。
「ふぅちゃん」
ふたばを変えた原因。
今年のふたばはなんと、彼氏をつれて帰ってきた。両親は事前に聞いていたようだけれど、何も知らなかった私はたいそう驚いた。
だって、知らない男がいるのだもの。誰だコイツって思うでしょう。
「こっちまだビール残ってる?」
「ん、そこに空いてないのがひとケースあるよ」
「ほんとだ、ありがと。お義父さんたち、すごい飲むよね。俺、ビックリしちゃった」
飲みすぎないでね、と口にしたふたばの声は、とても優しい。
顔を合わせた時に紹介されたが、名前は忘れてしまった。なんとなく、ふたばに似ている男だな、とは思った。
丸顔で少しぽちゃっとしていて、猫みたいに口角が上がっている。垂れた眉が優しそうな男。この人が、ふたばの長い反抗期を終わらせた。
ふたばはもっとチャラついた細マッチョがタイプの筈だが、なにをどう転んだらこんな真逆の男に辿り着くものか。
ただ、ゆっくりとした口調や、ふたばを見る目線は、とても印象が良かった。
「いい人そうだね」
「いい人よ。とにかくいい人。それ以外印象がないくらい」
姉の恋事情なんて聞いても気まずいだけだから深くは突っ込まないが、あぁ好きなんだな、と自然に思えるくらいふたりはお似合いである。
みんな当たり前のように恋をしている。
「ふたば、カニグラタンちょうだい」
「ダメに決まってる」
「ケチ」
仲の良い姉妹ではないけれど、味覚は似ていた。私もふたばも、味覚が何年も成長していない。
私たちの目の前に鎮座している料理は、同じものばかり残って、同じものばかり減っていった。
おじいちゃん、早くお蕎麦茹でないかな。
「結婚するの?」
「そんなの今から分かるわけないでしょ」
「ふぅん」
そうなればいいなとは思ってる。宴会の喧騒の中、ふたばの声だけがはっきり聞こえる。
「ハジメは?彼氏できた?」
「できない」
「へぇ」
途切れ途切れの会話、手探りで距離をはかる。
「ねぇ、ふたば。恋ってどんな気持ち?」
「……………は?え、どうしたの、怖いんだけど。変わったなとは思ったけど、変化が著しすぎる」
「いや、変わったのはふたばだから」
お互いに目を合わせて、なんとなく笑った。苦笑気味の笑顔だったけれど、きっと十年以上ぶりに、私たちは姉妹で笑い合った。
そうか。気づかないうちに、私も変わっていたらしい。
「恋ねぇ……あたしも、サツキと会ってから今までのは恋じゃなかったんだって思ったけど」
「サツキって誰」
「は?え、あいつ。紹介したでしょ……」
ふたばが指さした先で、ニコニコした丸い男が祖父にビールを注いでいた。
あぁ、言われてみればそんな名前だった。ぬいぐるみみたいな見た目で、名前まで可愛いのか。
義兄になるかもしれない男だ。今度こそちゃんと覚えていよう。
ふたばとサツキさん、上手く行くといい。今の私たちであれば、きっとお互いに喜べるって、そんな気がする。
「あたしはすごく自然に"この人が好きだな"って思った」
「サツキさんの一番になりたいって思った?」
「うーん……それよりかは、一緒にいたい気持ちの方が大きい」
ふぅん、と返した。
マスターの語る恋とは似ても似つかない穏やかさで、叶の恋ほど痛くもない。
「なに、あんた恋してんの?妹とこんな話ししてるとか驚きすぎて最早気持ち悪いんですけど」
「それについては同意。恋についてはよくわからない。仲の良い友達が私に恋をしてて、私はその人と仲の良いままでいたくて、受け入れたらいいのか、受け入れちゃいけないのか、それをずっと悩んでる」
ちりん、と音がして、キジトラの猫が膝に乗ってきた。
「源ちゃん!んんん、お前は可愛いなぁ!」
顎に手を差し入れると、私の手に頬を擦り付けながらゴロンとひっくり返った。この世の終わりかってくらい可愛い。
前山田源十郎、我が家の可愛い愛猫であり、こんな名前でありながら雌だ。避妊済みの十二歳。
「あんたみたいに男友達多くないから、あたしにはわかんないけど……」
「女だよ」
「あ、そうなの?」
ゴロゴロ言い始めた源ちゃんのお腹を撫でまわして、お腹を優しくぽんぽんと叩いてやる。こうすると赤ちゃんみたいに寝るのだ。可愛い奴め。
「驚かないんだ」
「いや、驚いてはいるけど。人間で良かったと思って」
なにを言っているのだ、と思ってふたばの顔を見たが、向こうはなんでもないような顔をしているだけ。
本当に、ふたばは変わった。
「あんた猫にしか興味ないと思ってたから。君江と結婚するとか言ってたし」
次郎丸君江、我が家の可愛い愛猫でありこんな名前でありながら雄だ。白黒のハチワレ模様がキュートで、去勢済みの十四歳。
君ちゃんはおそらくキャリーゲージのなかでお休みしている。
君ちゃんが我が家にやってきたときあまりに可愛くて愛しくて、雷に打たれたような衝撃があった。小学生だった私は、結婚するならコイツしかいねぇ!と思ったのである。
「というか、なんとなくだけど男はダメなんじゃないかって思ってたから。むしろ納得」
「なにそれ、初情報」
「んー……なんていうのかな、男友達といるときは自然なのに、女友達といるときはなんか不自然だなって。異性に慣れてない男みたいってずっと思ってた」
初情報すぎて、源ちゃんのお腹をぽんぽんする手が止まってしまった。抗議するように、源ちゃんが額をぐりぐり押し付けてくる。可愛い奴め!
こうしてやる!うりうり!あー、可愛い、結婚しよ。
「女の体に欲情したことないけど」
「あたしも男の体に欲情したことないよ」
「え、サツキさんとえっちしないの?」
直球すぎるでしょ、あんた!と怒られたが、宴会の喧騒の中ではそんな声も目立たない。
「そういう状況になったらそういう気分になるけど、男の体見たからって早々そんな気持ちにならないでしょ……」
「そういうもの?」
「そういうもの。知らんけど」
ふたば以外の人にも、私の態度や行動はそういう風に見えていたのだろうか。
もしそうだとしたら、マスターが執拗に『私に抱かれてみろ』と言った理由がわかる気がする。
「つか、あんたは相手が女でも平気なわけ?」
「ん、うん。それは大丈夫。相手が猫でもイルカでも壁でも、あんまり悩まない自信がある」
「壁は流石に悩め」
ぬるくなったビールは気も抜けかけていて全然美味しくない。舌にまとわりつく苦さだけが残った。
「あの人といるのが楽しいの」
「うわ、こわ」
「失礼千万」
ふたばにこんな相談を持ちかけている現状がすでに怖いと思う。
もっと早くふたばと和解できていたら、なにかが変わったのだろうか。実家で過ごすことが楽しいと思えていたのなら、私はわざわざ鷹取条南大学に入学しなかったかもしれない。
そうしたら、聖に会うこともなかった。
地元に帰ってきてまで、私は聖のことを考えている。
「何にも興味ありませーん、みたいな顔してたくせに」
「何にも興味なかったから」
「何言っても怒らない、何言っても響かない。退屈そうなすまし顔。あんたのあの顔が、あたし死ぬほど嫌いだった」
私は共感性が欠如しているのだと、最近よく思う。
人生はそれなりで、まぁまぁで、良くも悪くもなくて、退屈だった。興味を抱ける範囲が極端に狭くて、箸が転がっても笑えるような同学年の女の子たちと、いつも心が乖離した。
服や靴が好きで、美容に興味があって、そんなところはみんなと同じなのに。それを共有できない。
何を言っても怒らない。嫌な気持ちにはなるけれど、『ふぅん』で終わってしまえることだったから。
何を言っても響かない。言われたことについて考えることはあっても、『ふぅん』で片付いてしまうことだったから。
嫌いだとふたばに言われて、なんで今更、私はこんなに悲しく思うのだろう。
「ちょ、ま、は!?え、ちょ、ハジメ、ちょ、え!泣く、え!?」
驚いた。鼻の奥が痛いと思ったら、涙が出た。
自分でも驚愕してふたばを見る。私、なんで泣いたのかな。
「もー!なんなのホント、ごめんって!」
ぐっと引き寄せられてふたばの肩に着地する直前、ビックリ顔のお母さんと目があった。わかる、私も驚いているから。
抱き寄せられたふたばの肩に、私は『あぁ、聖じゃない』と思った。ただ、そう思った。
それで分かった。
私はふたばに受け入れられて嬉しかったのだと。そのあとに嫌いと言われて悲しかったのだと。
私はどうやら、どんなに嫌われても姉であるふたばと仲良くしたかったようだ。
聖に似てると言われたこと、あとでふたばに教えてあげよう。
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