チャットで生き抜く異世界生活。

ジジ

第1話

田中三郎は持て余していた。

自身の境遇を。


彼はこの世の幸運の大部分を掻き集めた程にツイていた。

まず何の気無しに付き合いで買った宝くじが当選した。

勿論一等前後賞合わせて6億円。

慎ましく暮らせば孫の代まで食いつなげるであろう金額を手に入れ、彼は勤めていた土木建設会社を退職した。


過去に女性からこっ酷く振られた経験から、女性不信であった彼は、そのお金の使い道を投資に回した。

数千万円程度は失っても良いだろうという思考から、海外の全く知らない新興企業に株式投資した。

その投資も偶然にも当たってしまい、知らぬ間に株は5億円程度の評価額となった。

彼はその結果に驕ることは無く、偶然のことだからとすぐに売却した。


余程の贅沢を数年続けなければ尽きない資金を得たものの、そう言った事に興味が持てなかった為、次に手をつけたのは、自身の趣味であるゲーム開発だった。

決して奇抜でなく、只々自身がプレイしてみたいゲームを開発して、それを楽しもうとした。

本当に大まかなプロットと、システムデザインだけを伝え、お気に入りのシナリオライターを破格の報酬で雇い、お気に入りの制作会社を買い取り、制作を指示した。

売れなくても自分が楽しめればいいのだと割り切っていたものの、豊富な資金と十分な制作期間を確保して作られた王道のゲームは、過去に類を見ないほどの大ヒットを収めた。

彼はオーナー兼プランナーとして適当に仕事をこなした。

最初のうちは自分の理想のゲームが次々にリリースされることを喜んでいたものの、所詮は自分の想定を超える事が無い事に気付き、突然に興味を失い、それすらも辞めてしまった。


莫大な利益だけが手元に残り、彼はその後何にも興味を持てない日々が続いた。

随分長い時間を無為に過ごした。


ある日、特に好きでもないビールを2本ほど飲み、彼は就寝した。

夜中に尿意を催し、トイレで用を足していたところ、見慣れた自宅のトイレの景色が一変した。


果ての見えぬほどに広々とした室内。

白黒のチェックの床が延々と続く中で、彼は小便を撒き散らしていた。


「……ここ、どこ?」


思わず声が漏れた。

バリバリの違和感がありつつも、すでに放射してしまった尿は止められず、随分と長い間、床にびしゃびしゃと音を立てて尿が放たれた。

それが止まる頃、ツカツカとヒールの音を鳴らして歩いてくる人影が見えた。


「こんばんは三郎くん」


三郎の目の前に現れたのは、抜群のプロポーションで、露出の高い服装をした女性だった。


「僕は、トイレを間違えてしまいましたか?」


事態が飲み込めない三郎は、素っ頓狂な事を口走った。

彼女は少し微笑んで、


「貴方は何も間違えていないわ。常に成功を収めてきたもの」


と言った。

次第に三郎の下半身に目が移り、微笑みは堪える様な笑いへと変わった。


「ふふっ……すみません……っ! まずはズボンを上げていただいても宜しいかしら?」


事態が飲み込めないながらも、自分が美女の目の前で尿を出し切り、下半身を露出している事だけは飲み込めた三郎は、ゆっくりとズボンを上げ、服装を整えた。


「いや、初対面の方に粗末な物をお見せしてしまいました。申し訳ない」


運に恵まれて生きてきたものの、社会経験は十分にあり、また度胸も据わっている三郎は、この様な状況でも不自然な程に落ち着き払っていた。

女性はその様子も大変に可笑しかったようで、笑顔を絶やさぬまま三郎に声を掛け続けた。


「いえいえ、私が貴方をお呼びたてしたのです。失礼があるとすれば私の方でしょう。非礼をお詫びいたします」


丁寧な言葉遣いとは裏腹に、何かイタズラめいた笑みを浮かべ続けながら、続けた。


「三郎さん。貴方は今日から異世界に転生してもらいます」


「はぁ……異世界、ですか」


「そう、異世界」


「未だ理解が追いつきませんが……所謂、私の知る『異世界転生』という物、でしょうか」


現代日本では、一定数の人間の間では共通認識と言える『異世界転生』。

恐らく、自分はそれに遭遇したのだ。と、三郎は瞬時に思考を巡らせた。


「三郎さんのおられた世界の事は、私も多少存じております」


「では、私の今の認識からは大きくは外れていないのでしょうか」


「貴方が正確に何を思い浮かべていらっしゃるのかまでは、私にも判りかねます。しかし、恐らくは思考されている事に近い事が起こり、今この場所、この時間はその導入の為のものであると思っていただいて差し支えありません」


「そうですか……」


突拍子の無い展開にも関わらず、三郎は落ち着いていた。


「それは結構。浮世にもそろそろ飽いていた頃合です。是非、何処へなりともお連れください」


「あら、まさかの返答だわ。貴方みたいな方はあまりいらっしゃらないの」


「ところで、宜しければ貴女のお名前をお聞かせ願えますか?」


「私はバカボンと申します」


三郎は言葉に詰まった。

彼女は何かジョークを挟んだのであろう。そう理解するまでに数十秒を要した。


「すみません。冗談を理解するのに時間が掛かりました」


そして、少し訝しげに彼女を睨み、言った。


「私は些か、気が動転しております。事態を飲み込むにはまだ至っておりません。その中で、貴女の戯れの言葉に瞬時に笑って差し上げるのは難しい。導入というのは重大です。出来るだけ真剣に、私に説明をしていただける様願います」


それまで微笑んでいた彼女も、三郎につられるように真面目な顔に変わった。


「三郎さん。私は貴方に対して一切冗談など言っていません。貴方の境遇を十分に理解し、至って真面目に、必要な事をお伝えしているつもりです」


「それは、つまり……」


「つまり、私の名前はバカボンです」


「ちょっと待ってください。これはちょっと……異世界転生よりも余程に理解出来ない。貴方は美人だ。少なくとも私からはそう見える。しかし……名前はバカボンなのですか?」


「貴方、何か私を馬鹿にしておられるのですか?」


「いやいやそうではないのです。ただ、私の知る世界では……その名前は、貴女の素敵な見た目とは相反するイメージを有しているもので……すみません。異世界での認識の差異を想定しておらず、失礼な事をいったかも知れません」


三郎が必死に取り繕う様を見て、彼女は何か思い耽るよう首を傾げた。

そうして、少しすると、合点がいったとのように頷いた。


「ああー、そういう事だったんですね! これは私が失礼しました。ホストとしては、貴方の住む世界についてもう少し存じておくべきでした。恥ずかしい限りです……」


その後、更に彼女の顔色が変わった。


「ええと、つまり三郎さんは、私の名前を聞いて、アレを思い浮かべた……と」


「もし貴方が納得されたイメージが私の思い浮かべるものと相違なければ、それです。私の反応も理解頂けると思います。更に言うなら、私が思い浮かべたのは、俗に言う『パパ』の方です。この辺多少ややこしいのですが、まあ誤解が解けたのであれば、それ以上掘り下げる必要も無いので、出来れば私の知りたい事を答えていただきたい」


「転生の導入にはいずれの方も大小と困惑されるものですが、こう言った事もあるのですね……貴方の次にいらっしゃる方にはその点も気を付けて接することとします」


一連のやりとりの中にも、確認しておきたい背景がいくつか見え隠れするものの、まず重要な情報が確保出来るであろう現状を有効に活用するため、三郎は焦り気味に尋ねた。


「では……バカボンさん。いや、本当に失礼ですが、貴方のお名前をお呼びするにあたり、抵抗が拭えない……」


「では、貴方の世界で私の存在に相当するもので呼び替えても良いのです。例えば、アルテミスなどどうでしょうか」


「その落差にまた動揺もありますが……では、この場ではそう呼ばせて頂きます」


どうにか、この比較的どうでもいい論争も着地したので、三郎は言葉を続けた。


「確認しておかねばならないことが幾つかあります。私にとってはとても重要な事です」


「はい、何でしょうか」


「アルテミス、貴方が私を異世界に召喚したのか?」


「はいそうです」


「それはどのような目的があって?」


「これから貴方を送り出す世界を救っていただきたいのです」


「これから送られる世界は、私の世界にて汎用的に想像される『異世界』と差異のあるものか?」


「大きな差異は無いと思われます。質問が漠然としている為、どの程度の一致を想像されているかは判りかねますが、貴方が根底から理解出来ないほどに世界法則が捻じ曲がっていると言った事はありません」


「私は何を以って貴方の目的を達するか」


「世界そのものを維持する為、それを消滅させんとする存在と戦い、滅ぼしてください」


「転生後に付与される能力はあるか」


「未知です。救済すべき世界に降り立った後、それを確認する術が見つかるでしょう」


「最後に一つ。この世界での死は、前世界での死と同等か」


「いえ違います。しかしノーリスクではありません。場合によっては死よりも恐ろしいペナルティが発生する恐れがあります」


「なるほどわかった。僕からの質問は以上」


バカボンもとい、アルテミスは不思議そうな顔で三郎を見つめる。


「何か僕の顔についています?」


「いえ……当然のように聞かれるであろう質問が無かったので」


「それというのは?」


「『どうすれば元の世界に戻れますか?』です。」


「ああ……特に興味がないもので、聞く必要も無いかなと」


「そうですか……」


アルテミスは不思議そうな表情を浮かべるも、直ぐにそれを飲み込んだ。


「他に聞いておきたい事は何かありますか? と言っても、私が貴方にお話出来る時間も残り僅かです。それに恥ずかしい話ですが、私の知識も貴方が求める知識全てを補完するに至りません。乱暴ではありますが『習うより慣れろ』になってしまうのです……」


「もう十分だ。色々と有益な情報をありがとう」


「では、貴方を異世界へとお連れいたします。御武運をお祈りしております」


「ありがとう……」


三郎の形式上の感謝の言葉が僅かに知り切れるようにして、その姿は消えた。


アルテミスは彼が消え去った後、不敵な笑みを浮かべる。


「三郎さん……これは随分と、期待を超える逸材ではありませんか……ふふっ」


女神アルテミスは、三郎との会話の中に満足出来る物を得たようであった。




……


…………


………………




(……ここは?)


女神から転送を受け、ぼんやりしていた意識が戻ると、三郎の視界は薄紫色にボヤけていた。


(なんだか身体がピリピリと痛む。それに、生温い液体に包まれているようで、手足が動かしにくい)


視界の中に一つ、はっきりと映るものがあった。所謂ステータスを表示するウインドウだ。

そこにはこう書かれてあった。


『三郎』

HP:995/1000

パッシブスキル:自然治癒強化(+10HP/5s)

スライムによる捕食状態。スリップダメージ(-1HP/1s)


(異世界転生のスタート地点がスライムの中か……)


三郎は驚くでも無く、呆れ気味に状況を受け入れた。

ピリピリした痛みと動きにくさが気になる為、しばらくの間スライムから脱出しようともがいては見るものの、随分としつこく身体に纏わり続け、完全に振り解く前にすぐに再捕食されてしまう。何度か続けるうちに三郎は諦めてしまった。


次に、三郎は頭の中で状況を整理し始めた。

ステータスの意味するところは正確には分からないが、恐らくは1秒経過で1ダメージを受けつつ、5秒経過で10HPを回復している状態なのだと解釈した。

つまり永遠にスライムの中に居ても死ぬことは無い。

この状況を良しとする訳では無いが、とりあえず身の安全が確認出来た事から、三郎はスライム捕食状態を一時的に受け入れることとした。


三郎が脱出を諦めて動きを止めてから、スライムは三郎を体内に取り込んだまま移動し始めた。その速度は三郎が歩くよりもかなり速い。


(現段階で特に当てがある訳では無いし、他に害が無いのであれば、人里が見えるまでこの状態というのも、意外といいのでは無いだろうか)


こうして、初手から成り行き任せの三郎の異世界冒険はひっそりと幕を開けた。

まず目指すは人里。スライムの移動により、無事に辿り着けるのであろうか。

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