十月二十八日 放課後

「ありがとうございました!」


 最後のお客さんを見送って、ふと気がついたら辺りはもう閑散としていた。ステージ前に所狭しと並んだブースの片づけもあらかた済んでいて、でもまだ余韻に浸っていたくてしぶとく残る生徒たち。それも先生に促されてぽつぽつとクラスや元の場所へと戻っていく。がらんとしたテントや、ぽつんと残されたゴミ箱なんかに、楽しかったという気持ちだけが残っているけど、それも風が吹くたびに薄れていく。


 あっという間に駆け抜けてしまった。たくさん売れていった私たちの物語を思うと、誇らしい気持ちになる。だけど同時に、急に何もかも終わってしまって、手元には何一つ残っていないような気がして、とても寂しい気持ちになった。


「あ、由良さん」


 寂しさに耐えていたら、私を呼ぶ声がした。


 振り向くと、そこにはタケルと加瀬くん、森山くんがいた。


「あ、お、お疲れ様で、す?」


 咄嗟の返事に詰まって疑問文になってしまった。


「うわ、カレンは全部売ったんだ! すごいじゃん!」


 タケルが私の抱えている箱を覗き込んで言った。


「村上ももっと頑張らなきゃいけなかったじゃん!」


「そうだよ、俺らと遊んでる場合じゃなかったってー」


 二人が口々にタケルに言う。


「俺なりに頑張ってたじゃんか~」


「いーや、もっとできたね」


「そうだそうだ」


 タケルたちはタケルたちなりに文化祭を楽しんでいたのだろう。友達と過ごす時間が楽しくて、あっという間に過ぎてしまうのがわかるようになった。


「じゃ、俺は部室行くから」


「あとで連絡するわー」


「文化祭の打ち上げと行こうぜ」


「打ち上げするほど頑張ったのかよ?」


「いいじゃん、そういうもんだって多分」


 手を振りながら、二人はクラスの方へと戻って行った。タケルと二人で取り残されて、なんだか気まずい空気が漂う。


「ホント、でも、カレンすごいって!」


 タケルが明るく言ってきた。何に対してそう思ってくれているのだろう。


「そんなことないって。……タケルはどのくらい売れた?」


「俺一人の時は三冊かな。午後だけだったし、お客さんとかに話しかけてもあんまり反応なくて、心折れそうだった」


「確かに。一生懸命説明してもつまらなそうにされると、悲しくなるね」


「そうなんだよ! カレンは、何冊売ったの?」


「えっと……、完売したから十五冊かな」


「すご!!!!! 俺なんか足元にも及ばないじゃん、カレンすごいよ!」


 大袈裟に驚いて褒めてくれるタケル。


 私より、タケルの方がとても少ないことに驚いていた。私より、明るくて、人と話すのが上手なのに。私より、人懐っこくて、愛想がいいはずなのに。私より、友人も多いし、仲の良いクラスメイトだって多いはずなのに。


「た、たまたまだよ、きっと」


「そんなことないって。カレンはちゃんと真面目にやってるから、すごいんだって。もっと誇っていいと思う」


 いくらかトーンダウンしたタケルにそう言われた。


「そっか。……ありがとう」


 タケルに言われたことを胸の内でもう一度繰り返す。


 努力。先輩たちのためから、先輩のため、それもどうにもならなくなって、自分のため。努力というより、もう報われてくれないと困るっていう感情。「よかった」って手放しで言えるために、無駄にしたくないためにやったことが、同級生のタケルとこんなに差がつくなんて。


 たくさん売った誇らしさはあるけれど、今まで見えていた世界と違う、説明のつかない現実に首をかしげたくなる。


 風景は変わらないのに、なぜだか閑散とした空気の漂う部室までの廊下。みんな、やり切れたんだろうか。頑張り切れたんだろうか。文化祭が終わって、こんなに静まり返ってしまった学校の中。そこかしこに、ほわほわとした誰かの気持ちが漂っているような気がしてくる。


「お疲れさまですー」


 ガラリと開けた部室の、一番最初に目に入るのは残ってしまった文集の山。やっぱり一日では売り切ることができなかった。


「お疲れさま~。大変だったでしょう~」


 シズカ先輩がそう言いながら、ちょっと疲れた様子で私たちを見つめた。


 私は持っていた箱と看板を外して、積んである文集へと近づく。一生懸命書いた物語たち。一生懸命作った冊子。シズカ先輩が描いてくれた表紙。印刷される紙を買いに行ったこと。毎日の昼休みに少しずつ印刷したこと。


「ごめんなさい」


 気がつくと私の口から言葉が出ていた。


「何言ってるの~? 楽しくなかった?」


 シズカ先輩が私のそばにきて、そう言った。


「楽しかったです、けど、文集、全部売れなくて……」


 悔しい。悔しい。頑張ったのになぁ。頑張ったはずなのになぁ。


「今年は、一日しかなくて、部員も少なくて、ブースもなくて、それでこんなに売れたのよ? 昨日やっていたら、部員がもっといたら、ブースがあったら、絶対足りなかったよ。私たちは私たちなりに頑張って、楽しんだなら、それでいいの」


 ふわりと、優しく撫でてくれるシズカ先輩の手がとても温かくて、安心して、心が緩む。


「そうだよ! 俺なんか三冊しか売れなかったのに、カレンは十五冊も売ったんだからもっと胸張っていいって」


「お疲れ様」


 レン先輩も部室に戻ってきた。


「お疲れ様です」


「完売した~?」


「朝の分完売」


「わ、ちょうど半分だ」


 シズカ先輩が指折り数えてそう言った。


「そんなに売れると思ってなかったな。いつもと違うやり方の文化祭で、どうなることかと思ったけど、これはこれで楽しかったな」


「そうだよね~。去年と一昨年はブース付きだったから、動けなかったし。学校の中のどこでどんなのがやってるかとか、まんべんなく見れたの初めてじゃない?」


「色々なクラスのやり方も参考になったし、色んなお客さんがいて、めっちゃ楽しかったです!」


 三人が楽しそうに話しているのを私はぼんやり聞いていた。


 先輩たちにとって、いつもと違う文化祭になっていたんだ。でもそれは悪いことだけじゃなくて、新しい発見とか、もっと楽しいことで。タケルも私も初めての文化祭で、右も左もわからないけど、自由に見て回ったり、文化祭っていういつもと違う空気を胸いっぱいに味わうことができて。


「私も、楽しかったです」


 そう思えたら、私も素直にそう言えた。一拍遅れて気持ちが溢れて来る。やる前まで怖かったはずなのに、やってみたら楽しかった。知らないことは悪いことばかりじゃない。始まってみれば、案外余裕があったりして、私が知らない私をいっぱい見つけていた。


 それに気づいたら、今日一日がどれだけ私にとって大きな一歩で、楽しくて、充実していたことか、話したくなってしまった。ひとしきり、みんなでここが楽しかったとか、あれは見たかとか、どんな人たちが買ってくれたとか、そんな話で盛り上がった。


 そこには先輩とか後輩とかじゃなくて、一緒に時間を過ごした家族みたいな温かさがあった。


「そういえば、ユア先輩って見かけました? 俺は見かけなかったですけど、来たのかなって思って」


 思い出したようにタケルが言った。


 忘れていたわけじゃないけど、見ないようにしていた。私をここに連れて来た憧れの先輩が、頼れるみんなのかっこいいリーダーが、今ここに不在だってことに気づきたくなかった。


「うーん、文集の販売部数と残りの部数が合ってるから、多分来てないと思う。……きっとクラスが忙しかったのよ」


 シズカ先輩がのんびりとした口調で言う。


 この後、ユア先輩が来たらレン先輩は告白するんだ。もう一つの見ないようにしていたことが私の記憶から呼び起される。レン先輩の真剣な表情や、ユア先輩の話をする時のはにかんだ笑顔が、喫茶店のナポリタンの匂いと一緒に思い出される。目の前にいるタケルやシズカ先輩が霞むくらいに。


「そうは言っても、ユア先輩は部長じゃないですか。先輩たちだって、高校生最後の文化祭をクラスじゃなくて部活の方で頑張ったんだから、ユア先輩は少し考えるべきですよ」


 タケルが不満を漏らす。


「まぁ、いいじゃないか。俺たちは俺たちで、部活を優先したかったんだし、何より楽しかったんだから」


 すかさずレン先輩がフォローする。


 その行動の理由は、後輩部長を気遣って、ということだけじゃないのを私は知っている。どんよりと、そうなりたくないのに暗い気持ちになりそう。


「カレン」


 不意にレン先輩が優しく私の名前を呼んだ。突然のことにびっくりして、レン先輩を見つめた。


「カレン、ありがとう。準備も、今日の販売も、カレンがいなかったら俺たちは最後の文化祭を楽しめなかったと思う。本当にありがとう」


 そう言って私をまっすぐ見つめるレン先輩の顔は、疲れているけれど充足感に包まれたような笑顔だった。


 その顔を見ていると、心臓が脈を打つのが速くなる。ずっと好きで、好きだったレン先輩。今日が終わったら、もうこんなに頻繁に会うことも、話をすることも、ないのかもしれない。


 文化祭までの一ヶ月弱、私は誰よりもレン先輩と過ごしていた気がする。良いことばかりじゃなかったのに、見たくないこともあったのに、それでもこんなにドキドキするなんて、悔しいし、ズルい。


「文化祭、準備も、今日も、楽しかったです。一緒に、先輩たちと一緒にできて良かったです」


 心臓はバクバクとしているのに、私の口からはしっかりとした声が出た。本当はもっと言いたいことがあるのに、それ以上は言葉にならない。頭に浮かぶどれもこれもが余計な気がするし、言ったら、言ってしまったら、取り返しのつかないことになりそうで。


「遅くなってごめんなさい!」


 言葉の中で溺れそうになっていると、大きな音を立てて部室の入口が開いた。


 そこに立っていたのは、ユア先輩だった。


「皆さんにお伝えしなくちゃいけないことがあります」


 シズカ先輩やタケルが何か言うのを制して、ユア先輩は言った。


 そして静かに、私達に歩み寄った。


「私、華谷ユアは、本日をもって文芸部を辞めます」


 私の中の音が全て、止まった。

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