十月十七日
『鳥が空を飛ぶのは飛びたかったからだよ
風を切って 空気を感じて
何にも囚われることなく生きたかったから
私たちのずうっと昔に生きた私は
きっと愛する人の隣で生きていたかったんだ
そうじゃなかったら こんな大地に愛着なんて持たないよ
生命の匂いや 柔らかな緑 心地よく温めていく太陽
凍てついた氷 静まり返った湖 肌を叩いていく大きな雨粒
めまぐるしく変わる環境についていくので精一杯で
じゃあ私は何が欲しいのだろう
何を望んでいるのだろう
何を怖がっているのだろう
生きたいところで息をしよう
心地いい場所を探そう
こんなに世界は広いのだから』
キーンコーンカーンコーン―――。
「起立、礼、着席」
授業が終わると共に駆け出す数人の男子生徒。堰を切ったように賑やかになる教室の始まりの合図だ。いつもなら、様子を見ながらそっと教室を出て図書室に向かうのだけど、今日は違う。
「カレン、ご飯一緒に食べない?」
ケイがお弁当を持って、お昼ご飯に誘ってくれる。入学してから、ほとんど一人で図書室でお昼を食べて来た私からすると、とても信じられない気持ちだ。ようやく、高校生になれた気がする。
「ありがとう。でも、ごめん。部活の準備が終わらなくて、お昼休みに印刷しなきゃいけないものがあるの」
「昨日終わらなかったの?」
「うん、というか、印刷室借りられなくて」
「どういうこと?」
「本当にごめん、時間がないから準備の時に話すね」
「わかった。がんばって」
察してくれたらしいユカリが送り出してくれた。友達とお昼ご飯を食べるなんて、すごく楽しみなことだけど、それ以上に焦る気持ちの方が大きかった。
大急ぎでカバンを掴んで、教室を出た。教室を出る時、加瀬くんたちとのんびり話すタケルが視界に入った。昨日、文芸部のみんなに連絡をして事情を説明したのに、どうしてタケルはのんびりとしていられるのだろう。
パタパタと早歩きで渡り廊下を渡る。管理棟から自分たちのクラスへ帰る先輩たちの一団や、購買を目指す生徒たち、授業が終わって教材を抱えた先生たちがゆっくりと行き交っている。いつも通りの光景なのに、私の心は全然穏やかじゃなかった。
「失礼します」
職員室に印刷室のカギを借りに行くと、ぶら下がっているはずのカギはもう既になかった。一足先に、先輩の誰かが印刷室に行っているみたいだ。
「お疲れ様です!」
ドアを開けるスピードも、私から発せられる声も、思ったより勢いがついていた。
印刷室に先に来ていたのは、レン先輩だった。
「レン先輩……」
「カレン、お疲れ。早いね。お昼は?」
コピー機を操作しながら、顔を上げたレン先輩がそう言った。
「印刷してる間なら、時間があるのでそこで食べようかなって」
「そっか。じゃあ一緒に食べよう。今印刷し始めたところだから」
よく見ると、三台あるコピー機全てが印刷した紙を吐き出している。レン先輩がチャイムが鳴ってすぐここに駆け付けたことが、よくわかる。
「……え?」
それよりも、今、一緒にご飯を食べようってレン先輩に言われた?
「座らないの?」
「あ、はい」
作業台の片隅にパイプ椅子を二脚持ってきて、レン先輩と並んで座る。
レン先輩はビニール袋から、サンドイッチとお茶を取り出した。
「俺たちの準備ができなくて、カレンには苦労かけるね」
食べながら、レン先輩がぽつりと言った。
「そんなことないです。もっとがんばろうって思ってます。それに準備も楽しいです」
「それならいいんだけど」
会話がなくなって、カシャカシャとコピー機が紙を吐き出す音だけが部屋に響いている。
「あの、レン先輩はクラスの準備とか、大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。俺の班の友達が、作るの得意な人がいるんだ」
「課外とか、忙しくないですか?」
「勉強は忙しいけど、文化祭は今年で最後だからね。悔いのないように楽しみたいよね」
レン先輩から聞く『最後』という言葉が、今更のようにずっしりとのしかかる。来年は、もうレン先輩とシズカ先輩はいないんだ。どうして私は一年生なのだろう。先輩たちともっと一緒にいたかったなぁ。
「カレンはクラスの準備、大丈夫?」
レン先輩が心配したように聞いてくれた。
「はい。私も、友達が部活優先でいいよって言ってくれるんです」
「いい友達だね」
またぼんやりとした沈黙の時間が流れていく。忙しくしているのは三台のコピー機だけだ。規則正しいリズムと、夢みたいな、学校じゃないみたいな空間に、不思議と心が落ち着いてくる。
「お疲れさま!」
整えられた空気を破った声はユア先輩だった。
「カレンー! 昨日は本っ当にごめん!」
入って来るなりユア先輩に抱き着かれて身動きが取れなくなる。
「だ、大丈夫です。レン先輩が、こうして他の日の申請してくれましたし」
「本当にうっかりしてた。ごめんね」
「ユア先輩、忙しかったら言ってくださいね。手伝えることはがんばりますから」
「カレン、めっちゃいい子! ありがとうね!」
わしゃわしゃと子犬を撫でるように頭を撫でられた。ユア先輩はいつもの通りに笑っているけれど、きっとクラスの準備と部活で忙しいのを私たちに見せていないんだ。頼りない自分が不甲斐ない。もっと私に何かできたらいいのに。
「印刷終わったから、今日の分、運ぼうか。もう一回分くらいはギリギリ印刷できそうだな」
時計を見ていたレン先輩は、コピー機を操作しながらそう言った。
ひとまず三人で印刷された紙をそれぞれ持って、四階の部室まで運んだ。
部室には、昨日印刷した分のページが順番に並んでいる。その続きに、今日印刷した分を並べていく。
「昨日印刷できてなかったら、間に合わなかったな」
「中条先輩に感謝ですね」
「中条先輩、何か言ってた?」
ユア先輩が神妙な顔をして私に聞いてくる。
「特に何も言ってなかったですよ」
「そっか」
少し曇った表情で短く答えるユア先輩。やっぱり部長っていう立場は大変なんだなぁと感じる。
もう一度机の上に視線を移す。みんなが書いた物語の断片が、印刷された紙に写し取られている。この光景を見ると、とても大切にしなくちゃという気持ちになる。先輩たちのためにも。
「戻ろうか」
レン先輩に言われて我に返った。
「はい」
返事をして部室から出る。振り返って見ると、いつもの部室が大切なものが収められている宝物庫みたいに見えた。
「きっと間に合いますよ。みんなでがんばれば、文集、きっと完成しますよね」
なんとなく、そう口から零れていた。
「大丈夫。カレンは頑張ってるし、なんとかなるよ」
レン先輩の言葉に、私は安心した。ユア先輩は私の頭を撫でてくれていた。
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