九月十二日

『ぐちゃぐちゃになったまっさらなノート

クレヨンもアクリル絵の具も水墨も

どれで描いても正解だったのに


なにも記されることのなくなったノート

ボールペンでもシャープペンシルでも万年筆でも

書けないなんてことはないはずなのに


誰にも見向きもされなくなったノート

あの人もこの人もあなたもぼくも

繋がりを感じては嬉しく思っていたのに


全部 ぜんぶ 妄想だ、妄言だ

でたらめ うそつき 分不相応


縋りたい世界はどんな色?

見つけたい世界はどんな言(こと)?

知りたい世界はどんな声?』



 自然と強くなっていく筆圧に書き上げてから気がついて、手をぶらぶらと振って気休め程度の労わりを施す。脳内の世界がなかったら、きっと普通になんて生きてられない。


 サイレントモードにしてあるスマホを手に取るが、もちろん連絡なんて一件も入ってはいない。あの日からタケルからの連絡はぷっつり途絶えていた。


 私から連絡するのもなんだか違う気がする。元はと言えば、タケルが先に言ってきたのだから、タケルから私に連絡をするべきだと思う。それにすぐ謝るとバカにされて、もう私は何も言うことができないのだから。


「痛っ」


 無意識に噛んでいたイチゴミルクのストローが上顎に刺さった。傷にまではなっていないと思うけど、じりじりと痛みを発している。


「なんで……っ」


 思わず小さく声が漏れた。ピッと視線がこちらに向くのをひしひしと感じた。図書室では静寂を破るものは悪だ。それがどれだけ本人にとって大きな事柄でも、個人的な感情で公の空気を乱すことは許されない。


「はぁ~……」


 細く、長く、ため息をつく。声にならないように。吐息と違(たが)わぬように。この場を乱さないように。


 そして再び、思考は村上タケルへと向いていく。先週の金曜日のこと。丁寧に思い返して行っても、あの日の自分の行動が数日経った今でも信じられない。自分じゃないみたいに自分の口が動いていた。


 タケルに肯定してもらえなかったあの日に、ミコと柳崎さんに標的にされたあの日に、自分が思っている以上に傷ついていることに気がついた。好きだと言っていたのはタケルなのに、どうしてそっぽを向くのだろう。好きだと言うから好きになったのに、どうして急に冷たくなったのだろう。


 私の何が悪かったんだろう。初めてのことだらけで、どうしていいかわからないまま、でもそれでいいってタケルは言ったのに。だとしたら、やっぱり私は悪くないのかもしれない。


 だけどイライラは募って、暗く淀んだ世界ばかりが頭の中に広がっていく。今までに見たことのない景色。それは美しく輝いていた見たことのない景色と対になる、黒く汚れて霞んだ景色だった。


ズズッ―――。


 またもや図書室中の視線が私に集まる。今度は飲んでいたイチゴミルクが空になって音を立てたのだった。


「すみません……」


 流石に謝らざるを得なかった。ごく小さな声でも充分伝わる静けさ。まるで鏡面のような湖みたい。もしくは、台風の目の中のような。じっと時間が過ぎるのを耐えて、耐えて、耐えて。


ガラガラ―――。


 控えめに扉が開く音がする。この中途半端なお昼休みの時間と、パタパタという足音で、もう誰だか私にはわかっている。でも顔を上げずに、ノートだけを凝視する。何も視界に入れたくなかった。


「カレン……」


 小声で話しかけてきたのは、やっぱりユア先輩だった。


「ね、お菓子貰ったんだけど、一緒に食べない?」


 今はまだ放っておいて。そう言いたいのに、身体は素直にユア先輩の言葉を聞く。促されるがままに部室へ。昨日も一昨日も、おんなじ方法で私を誘い出した。


「タケルと、何かあったんでしょ?」


 そして最初に口にするのも三日連続同じ言葉だ。


「どうしてですか、気にしないでください」


 最初の日にそう言った。


「だってカレンは私の可愛い後輩だし、力になってあげたくて」


 少し前の私なら、ユア先輩の言葉に頷いていただろう。でも今はどうしてだろう、頷く気になれない。


「タケルに連絡してみた?」


 二言目もおんなじ言葉。三日も続くと、少ししんどい。最初のうちは、私を心配してくれているんだと思っていた。だけど私よりも、タケルのことを優先しているのかもしれないと感じてから、素直に言葉を受け取れなくなった。だって、私のことが大切なら「タケルから連絡あった?」って聞いてくれるはずなのに、いつだってタケルがメインだ。


 だけど私はユア先輩に言い返すことなんてできない。言い返すつもりもない。ユア先輩は私のことを輝く現実へ連れ出してくれた人で、可愛くて強くて頼りになる憧れの先輩だ。そんな人に、何か意見するなんて絶対に間違っている。


 今はただそっと見守っていてほしいのに。どうしてこんなに干渉してくるのだろう。きっとユア先輩はこんな問題、自分が直面したらいとも容易く対処するのだろう。私の行動を見ていて、秘かにイライラしているに違いない。そりゃそうだ。私なんかよりもずっと経験豊富で、私なんかよりも上手に恋愛が出来て、私なんかよりも……。


 惨めな気持ちだ。遠くでしゃべっているユア先輩の声をBGMに、持て余した感情をどうしようかと考える。きっとユア先輩は、私の気持ちなんか理解できない。だけど、優しくしてくれるユア先輩にそんなこと口が裂けても言えない。嫌われるのが怖い。


「カレンはどうしたいの?」


 私はどうしたいのだろう。タケルはどうなりたいと思っているのだろう。タケルから始めた関係なのだから、タケルに決めて話してほしいのに。どうして私もこんなに一生懸命考えなくちゃいけないのだろう。


 ユア先輩は私にどうしたいかって言うけれど、私がどうしたいか決めたところで意味なんかあるんだろうか。タケルやユア先輩や、私じゃない人の意見の方が説得力があって、正しいのに。


 もうぐちゃぐちゃととりとめのないことが心に溢れて、頭がおかしくなりそうだった。こんな見たくない現実があるなんて。今までよりも大変な、見たくないものがあるなんて知らなかった。


 見たくない現実、居たくない現実から逃げたいから、頭の中の世界を作ったんだ。だから、私のことは放っておいて、そこに居させてよ。どうせこうやって痛くするなら、最初から話しかけないで。期待もさせないで。

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