六月十七日 午前中

「どうしよう……」


 朝からクローゼットをひっくり返し、ふつうの服装を探していた。どれもこれも中学生の時に買った、子供じみた洋服ばかりで急に恥ずかしさがこみあげる。


 どうしてもっとちゃんとした洋服を買っておかなかったんだろう。


 お母さんと買い物に行く時間よりも、自分の世界に引きこもる時間を優先していたから。制服がある以上、私服にこだわる必要がなかったから。休日に一緒に出掛ける友人が少なすぎたから。そもそも洋服なんて着れれば何でもいいと思っていたから。頭の中で数多の言い訳が通り過ぎて行く。


「私のバカ……」


 鏡の前で立ち尽くす。もうバイトまで時間がない。いい加減に決めなくちゃいけない。


 だけど、今日は村上タケルがバイト先にやってくる。ダサいって思われたら、どうしよう。というか、ふつうの恰好って一体なんなの、何がふつうなの。


 もう訳が分からなかった。


 バイトに遅れる訳にはいかない。もう仕方がないので、細くてぴったりしたジーンズとプリントや柄の何も入っていない黒いTシャツを身に着けて、急いで家を飛び出した。


 夏の日差しに変わってきて、バイト先まで走る間、黒いTシャツが熱を持って暑かった。


「おはようございます…!」


 息を切らせてバイト先に辿り着くと、ちょうど宇留野さんも到着したところだった。


「由良ちゃん、おはよー。いつもは早いのに、今日は珍しいね?」


「ちょっと……寝坊しちゃって」


「日曜日の朝は寝ていたいもんねー。分かるわ~」


 適当に話をしながら事務所へ入って、身支度を整えた。


 シズカ先輩に結ってもらった日から、バイトの時はなるべく頭の上の方で髪を縛るようにしている。まだシズカ先輩がやってくれたみたいに上手にはできないけど、なんとかサマになってきたと思う。


 更衣室から休憩室へ移ると、小熊店長が待っていた。


「由良さん、今日から諸星さん居ないから、しばらくはレジ担当でよろしく。分からないことは僕や他のスタッフに聞いてね」


「店長に聞いたら余計に分からなくなることあるから、私か宇留野君に聞いた方が良いわよ」


 中川さんがすかさずツッコミを入れる。


「そんな、僕が戦力外通告されるなんて」


「店長は今日は事務所に引きこもっててくださいね」


 これではどっちが店長か分からない。思わず小さく笑ってしまった。


「うん、まあ、中川さんが居ればね、大丈夫だと思う。それに今日は羽鳥さんもいるから、売り場任せるね。よろしく」


 細身の上品そうな女の人が羽鳥ミカコさん。何回か顔を合わせているけど、まだあんまり話したことのないスタッフさんだ。


 羽鳥さんにお辞儀をして、開店準備をするために売り場へ向かった。


 私や羽鳥さんが掃き掃除をしている間に、中川さんがレジにお金を入れたり、準備を整える。開店までは、文庫本のカバーを折る。折り紙みたいで楽しい。


 時間になったら、宇留野さんがシャッターを開けて、あとはお客さんが来るのを待つだけ。


 シズカ先輩が居なくても、教わったことをすんなりと行うことができて、ちょっとホッとした。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせる。


「なるべく急いでバックでの仕事終わらすから、心細いだろうけどがんばるんだよ~」


 宇留野さんがそう声をかけてくれた。頼れる人が居ると思う安心感で、気持ちが落ち着いてくる。


 頑張らなくちゃ。


 そうこうしていたら、お客さんがちらほらと見え始まった。


「いらっしゃいませ」


 笑顔で挨拶。今日もちゃんとできてる。シズカ先輩に褒められたことを思い出す。


 シズカ先輩が居ないからこそ、しっかりしなくちゃ。


 私は、村上タケルが来ることをすっかり忘れていた。


―――――


「いらっしゃいま、せ」


 そろそろバイトの時間も終わるかなというお昼時、村上タケルは現れた。そうだったと一気に思い出し、一瞬言葉が詰まってしまった。恥ずかしい。


 パッと目が合うとニコッと笑う、いつもの様子の村上タケル。男の子のファッションはよく分からないけど、制服以外の服装が新鮮だ。


 レジにお客さんが来たけれど、なんとなく視界の隅で村上タケルの姿を追う。真っすぐ漫画コーナーを目指しているみたいだった。


 何人かのお会計が済んだ頃、村上タケルが『俺が英雄になったわけ』の最新刊を手にして私のレジにやってきた。


「ちゃんとバイトしてるね」


「うん。本当に買いに来てくれたんだね」


「そう言ったじゃん。……何時頃終わるの?」


「えっと、もうそろそろ終わるよ」


「そっか、じゃあ適当に立ち読みして待ってるから声かけてよ」


 私が何か返事をする前に、村上タケルはレジを離れて行ってしまった。


 話しながらもバーコードをスキャンして、お金を受け取って、本を袋へ入れる作業ができた自分に、私は驚いた。バイトしている姿を見られるのは恥ずかしかったけれど、村上タケルとも普通に話せたのも不思議だった。これがいわゆる、仕事モードということなのかな。私にそんな機能が搭載されているなんて、初めて知った。


「返品とか検品とか、思ったより時間かかっちゃった。由良ちゃん、そろそろ上がっていいよ」


 宇留野さんが、レジの交代に来てくれた。開店前で私が安心する言葉をくれたものの、宇留野さんは売り場は一度も姿を見せなかった。私が気付いていなかっただけかもしれないけど。


「ありがとうございます」


「ところで、さっき仲良さげに話してた子居たね。由良ちゃんの彼氏?」


 お先に失礼しますという言葉を口にする前に、宇留野さんが話す。『彼氏』という言葉にドキッとして、顔が火照った。


「カレンちゃん可愛いんだから、彼氏くらいいるでしょ。ほら、宇留野君レジ入って。カレンちゃんは上がっていいよ。お疲れさま」


 通りがかった中川さんがザクザクと会話を切っていく。私のお母さんとは全然違うタイプだけれど、どうしてか、お母さんという感じがしっくりする。


「ありがとうございます。お先に失礼します」


 今度は遮られないように、早口で言うと急いでスタッフルームへと戻った。


 エプロンを外しながら、村上タケルになんて声をかけるか考える。けど、何も思い浮かばない。


「お先に失礼します」


 小熊店長に声をかけて、私は売り場に戻った。私はもう小熊書店の店員じゃなくて、お客さんと一緒。


 きょろきょろと探せば、ホビー雑誌のコーナーで立ち読みをする村上タケルが目に入った。頭の中は全然まとまっていなかったけれど、ここに長く居るのも気まずい。


 宇留野さんにまたなんか言われるのも恥ずかしいし、中川さんや羽鳥さん、小熊店長に見られるのも恥ずかしい。


 村上タケルのそばに行くと、声をかける前に気がついてくれた。


「バイト、お疲れ」


「うん、ありがとう」


「帰ろっか」


「うん」


 村上タケルと並んで、小熊書店を出た。レジの方はなるべく見ないようにして。

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