五月三十一日

『何かが始まる気がしてる

うんと美しくて儚いこと


何かが始まる気がしてる

うんと私を傷つけて幸せにすること


何かが始まる気がしてる

うんとおめかししても足りないこと


何かが始まる気がしてる

うんと楽しくて寂しいこと


何かが始まる気がしてる

まだ見たことのない未来のこと


だけどそう遠くない未来のこと』


「カレンちゃん、そろそろバイト行こうか」


「あ、はい」


 今日も文芸部の部室へ集まって、本を読んだり、おしゃべりをしていたらシズカ先輩に声をかけられた。


 シズカ先輩のシフトにそのまま入る形で引き継ぐために、バイトは週に三日で一日三時間。忙しい時は、それ以上になるそうだけどそれはきっとまだ先の話。


「シズカ先輩、カレンを無理やり誘ったわけじゃないですよね? 私の可愛い後輩なんですから、こき使わないでくださいね」


「そんなことしないよ~。この前はバイト終わったら、一緒にクレープ食べに行ったんだよね」


「あ、はい。あの、クレープごちそうさまでした。すごく楽しかったです」


「カレン、今度私とも遊びに行こうね」


「あ、俺も俺も!」


「えっ、あの、えっ?」


 慌てる私をよそに、ユア先輩と村上タケルがどっちが先に誘えるかの勝負をしようとしている。それを面白そうに笑って見ているシズカ先輩とレン先輩。


 こういう時、私はどんな顔をしていればいいのだろう。


「カレン、どっちと先に行く? もちろん、私よね?」


「いいや、ユア先輩。カレンと俺は同級生ですよ? 俺と先に遊びますって」


「あの、えっ、ちょっと、その、あの、みんなで遊びませんか? その、文芸部のみんなで、仲良く。どっちかとかじゃ、なくって。……あ、嫌とかじゃないですけど、あの、仲良く、仲良くしましょうよ」


 私が焦ってそう言うと、ユア先輩と村上タケルは笑い出した。


「かわいい。カレンは本当にいい子だよ。そういうところ、私、大好き」


「真面目っつーか、純粋っつーか。カレンらしい」


「えっ? なんで笑うんですか? え、え?」


 自分がとてもバカげたことをしているようで恥ずかしくなった。心がぎゅっと縮こまって、恥ずかしさで顔が火照っていく。プチパニックになって、いたたまれない気持ちが私を支配していく。おろおろと二人の顔を交互に見ることしかできない。どうしよう。


「カレンが困ってるから、そろそろやめてあげて」


 レン先輩がすっと二人の笑いに割って入った。先輩はそのまま、私の隣に来てそっと顔を覗き込んでくる。


「悪気がないから許してやって。それにカレンが困る必要もないよ。二人ともカレンのことが大好きなだけだからね」


 目と鼻の先に、レン先輩の顔がある。サラサラと揺れる髪の毛が綺麗で見惚れてしまいそう。透明な眼鏡レンズの向こうの側にある瞳は、優しい輝きを湛えているように見える。


 レン先輩が、私の名前を呼んでくれた。レン先輩が、私のことを気にかけてくれた。レン先輩が、私の隣に座っている。レン先輩が、私だけを見ている。


 私の中を一気に駆け巡る、レン先輩の行動や言動。


 さっきまでとは違う恥ずかしさで、顔がどんどんと熱くなっていく。


 もうそれだけで、心臓がどうにかなってしまいそう。どこまでも早くなっていくドクドクという音が、耳にうるさい。絶対に、この音はレン先輩に聞こえてしまっているはず。それがまた恥ずかしくて、だけどそれに勝る嬉しさもあって、私は私の感情に振り回されてしまう。


「ごめん、カレン」


 ちょっとだけ、ふてくされたように村上タケルが言う。


「みんなで遊びに行こうね。そろそろバイトに行かないといけないのに、つい引き留めちゃった。頑張ってね!」


 ユア先輩が優しい声色で言う。


「ふふふ、みんなカレンちゃんのことが好きなんだよね~。じゃ、行こっか」


「あ、あの、レン先輩、ありがとうございます。ユア先輩も、村上くんも、あの、ありがとうございます。お疲れさまでした」


 ごにょごにょと言って、図書資料室を出る。


「ちょっと急がないと間に合わないかも。早歩きで行くよ~」


 シズカ先輩に促されて、急いでバイト先へと向かった。シズカ先輩の言葉は聞こえていたけれど、私の頭の中はレン先輩のことでいっぱいだった。


―――――


「いらっしゃいませ」


「そうそう、いい感じ!」


 レジカウンターの中からお客さんへ向けて声をかけると、隣にいるシズカ先輩が小声で褒めてくれる。くすぐったくて、ほんの少し恥ずかしいけれど、嬉しい気持ち。


 教室では空気になるため、息を凝らしているのに、正反対のことを今私はしている。本当に違う私になったみたいだった。


「お会計、六百七十円です。カバーは、おかけしますか?」


 たどたどしくも、頭の中で何回も繰り返し練習した言葉が出てきて、お客さんの背中を見送るたびにホッとする。良かった、できた、って。


「今、手、空いてるし、ちょっと棚の掃除行ってくるね。何かあったら呼んでね」


 そういうとシズカ先輩はハタキをもって売り場の方へと歩いて行った。


 一人でレジカウンターの中へ取り残されて、緊張がじわじわと足下から上ってくる。落ち着いて。落ち着いて、カレン。大丈夫。


「あの、すみません」


「…っはい」


 ドキドキしていたらお客さんから声をかけられて、声が少し裏返ってしまった。


「鉄道模型の付録がついてる雑誌があるって聞いたんですけど、どの雑誌なんですか?」


「……え?」


「付録が豪華な雑誌があるって聞いてきたんですけど、どれなんですか?」


 考えている暇がないくらい、お客さんが質問を重ねてくる。一体何の雑誌だろう。雑誌コーナーに行けばなんとかなるのかな。でもその雑誌がこのお店に置いてなかったらどうしよう。あるのかどうかも分からない。なんて言ったら、正解なのだろう。


「えっと、あの……」


 一秒ごとに時間が脈を打っているような気がしてくる。店内BGMも、賑やかな声も遠ざかって、耳に静寂だけが流れ込んでくる感覚。怪訝そうな顔をするお客さん。冷や汗が出るのに、頭の中はショートしそうなほど熱い。


「どうしたの?」


 声の主を見ると、宇留野さんだった。


「…っ! 宇留野さん、あの、お客さんに雑誌のことを聞かれてて」


「どんな雑誌をお探しですか?」


「さっきも言ったけど、鉄道模型の付録がついてる雑誌があるって聞いたから買いに来たんだけど、あるの?」


「ああ、ありますよ。こちら、ご案内しますね」


 あの鉄道模型の完成度は高いですよ、なんて話を続けながら、宇留野さんはさっとお客さんを連れてレジを離れていった。


 とてもホッとして、座り込んでしまいたいくらいだった。へなへなと身体中が脱力する。緊張していた筋肉が一瞬にして緩み、元の形を保っていられないような感じがする。


 そんなことを思っていたのもすぐで、宇留野さんがさっきのお客さんを連れてレジへ戻ってきた。


「こちら、お買い上げです」


「あっ、はい。ありがとうございます」


 レジを打ち、お金を受け取り、袋に入れた雑誌を丁寧にお客さんへ手渡す。


 その背中が自動ドアの向こうへ消えると、宇留野さんが口を開いた。


「分かんないことあったら、オレでも諸星ちゃんでも誰でもいいからすぐ呼んで聞いて。今日は由良ちゃんの困ったセンサーをキャッチできたからよかったけど、いつもそういうわけにはいかないからさ~」


 ふわふわと軽いノリで言う宇留野さん。


「はい、すみません。あの、ありがとうございます」


「いいって~。オレ、女の子には優しいから」


 そうしてニコッと人懐っこそうに笑う宇留野さん。長めの黒髪を後頭部で束ねて、明るいインナーカラーがよく映える。本屋さんの店員さんっぽくないし、怖い人なのかもと疑ってみたりしたけれど、やっぱり優しくていい人だった。


 そこからレジが混んできて、今日はへとへとになってバイトを終えた。


 すごく疲れているのに、頑張った!って気持ちで清々しかった。

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