サムライの涙

ヨシダケイ

第一話 鈴得小隊六七名、荒野に立つ・・・



この作品を故・山中峯太郎氏に捧ぐ。






かつて北方の大地に「コサック」なる騎兵軍団がいた。


黒毛皮の帽子を被り、

騎兵銃を横たえ、

双頭の鷲の軍旗を翻し、

果てない原野を疾駆する。



選りすぐりの駿馬に跨った彼らは、

一糸乱れぬ突撃猛襲を繰り返す。



対峙した相手は、

馬蹄の響きと共に来襲されたが最後、

瞬く間に屠られる。


砂塵舞う平原を縦横無尽に駆け抜けるコサック。


その姿は、まさに「嵐の如く」であった。



古来より遊牧騎馬民族は、

その戦闘力で定住民族を凌駕してきた。


スキタイ、匈奴、フン族、

12世紀ユーラシアを蹂躙したモンゴルなど、彼らの蛮勇は今に伝わる。



コサックもまた例外ではない。



15世紀中頃。

南ロシアから中央アジアにかけて発生したと言われる初期のコサックは、

肥沃な河川地帯に自治共同体を編成していた。


だが16世紀後半。

その力に目をつけた隣国の支配下に入り、

正式な軍団として認められるようになった。


中でもロシアの保護を受けたロシアコサックは、

隣接するポーランド王国、オスマン帝国、クリミア・ハン国と戦い、

ロシアの強国化に貢献していった。


その後、19世紀になると、

彼らはロシアにおける階級の一つとなる。


貴族、農民、聖職者と同じく一階級となったコサックは、

税免除の代わりに騎兵として兵役の義務が課されるようになったのだ。


こうしてロシアは領土拡張のため、

いくつものコサック軍団を編成。


彼らを国境防備や治安維持、

時には戦争の先鋒として活用したのであった。


カフカース戦争や露土戦争におけるロシアの勝利。


これらの背景に

彼らコサックの驚異的な戦闘力があったのは言うまでもない。





「そのコサック大軍団が、味方の補給路を断たんと怒涛の勢いで攻めてくるらしい」


明治38年(1905年)1月。



寒風吹き荒ぶ満州の荒野。


地平線の彼方を、一人見つめる男がいた。


男の名は鈴得巌。


大日本帝国陸軍中尉であり、

後備歩兵第四十九連隊第六中隊第七小隊長であった。


幼き頃より剣道と柔術で鍛えてきた鈴得のその体躯は、

小柄ながらも見る人によっては颯爽たる野武士を思わせる。


「人生で泣いてよいのは赤ん坊の頃だけ」



没落士族ながらも清廉な父に厳しく躾けられた鈴得は、

この父の下、艱難辛苦に耐えうる強靭な精神力を育んでいった。


事実、鈴得は、

その父の葬儀でも決して涙を流すことはなかった。


また、鈴得の右腕と首筋にある生々しい二つの傷跡。


これらは昨年の4月、鴨緑江の戦いの際に、

敵ロシア兵から受けたものである。


両軍入り乱れての激戦の最中、

サーベルで斬りつけられた鈴得であったが、流血部を抑えながら、


「大したことはない。かすり傷だ」


と迫りくる敵を撃退した。


血まみれになりながらも、なお追撃を試みようとする鈴得であったが

あまりの流血を心配した部下の再三の説得により、

やっとのことで追撃を諦めたほどであった。


しかも鈴得の怪我は思いのほか重症であった。



「全治半年はかかる。後方で治療しなければならない」


野戦病院にて軍医よりそう告げられた鈴得であったが、


「国の危機にそんな悠長なことは言ってられない」


と帰国を断固拒否。


軍医や周りも驚くほどの治癒力で、

僅か一週間で怪我を完治させてしまったのである。


「何事も精神力である」


が口癖の鈴得は、まさに明治のサムライといえた。


そして今。


鈴得中尉の指揮のもと第七小隊67名はある重大な任務を背負っていたのだ。


「まだ帰らぬか」


鈴得はそう呟くと、三日前にロシア軍陣地の視察へ向かわせた内田兵長の帰りを今かと今かと待ち望んでいた。



なぜならその報告に日本の運命がかかっていたのだ……

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