追憶の青春、黄昏の朝

怜 一

追憶の青春、黄昏の朝


 この校舎に入るのは何年振りだろう。

 飾ってあるものは違えど、壁の汚れや廊下の傷はあの頃となにも変わっていない。

 もう、この校舎も無くなってしまうのかと思うと、大切な思い出を壊されるようで鼻の奥がツンとした。


 都会の人混みに紛れ、仕事に明け暮れていたある日。高校時代の友達が集うグループチャットに一通のメッセージが書き込まれた。

 廃校になった母校の取り壊しが決定した。母校がある内に、みんなで集まって同窓会をしよう。


 そのメッセージは、会社帰りの疲れが吹き飛ぶくらいの衝撃だった。まさか、通っていた学校が無くなるなんて思いもしなかった。みんなも同じようにショックを受けたらしく、気持ちが一つになった私達は積極的に連絡し合い、同窓会の予定を組んだ。


 「ちょっと来るのが早かったかなぁ」


 集合場所の教室にみんなが集まるのは午前十時の予定だったが、私は一足先に学校に来ていた。一人でゆっくり思い出に浸りたかったという理由もあるが、それとは別に、私はある事を予感していた。


 埃の積もった階段を登り、三階へ上がる。すると、遠くの方から微かにピアノの音が聞こえてきた。

 私の鼓動が早くなる。

 はやる気持ちを抑え、ピアノが鳴る方へと歩いていく。廊下に射す朝日がだんだんと夕陽に変わっていき、私の服装も、あの頃毎日着てきた高校の制服に変わっていく。大人になって覚えたメイクは取れ、つけていたコンタクトは縁の細いメガネへと変わっていく。


 音楽室と書かれた扉の前に着く頃には二十六歳の私から、十八歳の私になっていた。

 防音加工されている重い扉をゆっくりと開く。部屋の隅に置かれたグランドピアノから華麗な旋律を奏でる黒髪の少女が、そこには居た。

 大きく唸る喜びと哀愁の感情が音色になり、彼女の手によって輝きを纏う。あの頃から変わらない彼女の音色に、私は、その場で立ち尽くした。

 

 曲が終わり、心地よい余韻が室内を包んだ。しばらくしてから、私は言った。


 「相変わらずだね、静」

 

 同じ制服を着ている少女は、私を見て、クスリと笑う。


 「アナタも変わってないわね、陽子」


 私達は、部屋の中央にいくつか置かれていた椅子に一席間を空けて横並びに座る。目の前にあるホワイトボードには、さまざまなピアノの演奏曲が箇条書きされており、右端の方には大きな文字で目指せ!大賞!と書かれていた。

 ホワイトボードを眺める静が、静寂を破る。


 「ねぇ」

 「なに?」

 「陽子はさ、進路どうするの?」

 「まだ、わかんない。多分、この町を出て、都会の大学に入って、そこからテキトーな会社に就職して、毎日毎日楽しくもない仕事をやって、面倒臭い人間関係に泣きそうになりながら仕事してるんじゃないかな」

 「…そっか」


 私は両足を上げて、膝を抱える。


 「静は、やっぱりピアニスト?」

 「うん。音大に入って、ベルリンに留学する。だけど、その先から上手くいかなくて、どうすればいいか悩んでると思う」


 二人とも苦笑いで、顔を見合わせる。


 「お互い、苦労しちゃうね」

 「ねっ」


 私と静は、放課後の音楽室でよくピアノを引いていた。一年生の私達は、二人だけで同好会を立ち上げ、音楽室が空いている日には必ず集まり、お互いの演奏を聴いていた。あそこが良かった、ここは下手など遠慮のない感想をぶつけ合い、次に会う日までに指摘された部分を練習してくる。そんな事を飽きもせずに、三年の秋まで繰り返していた。


 ある日の放課後。

 いつものようにピアノの弾いていたら、突然、私の左手の薬指が思うように動かなくなった。腱鞘炎だろうと軽い気持ちで病院で診察を受けた。しかし、医者の下した診断結果は、フォーカルジストニアという聞き慣れない病名だった。フォーカルジストニアはストレスや正確な反復運動を繰り返すことが原因で発症する、楽器演奏者に多く見られる神経疾患だった。

 

 普遍的な治療法は確立されておらず、とりあえず処方された薬を試してみるも一向に治る気配はなかった。手術を受けるという選択肢もあったが、受験勉強に支障が出てしまうため、一旦、治療することを諦めしまった。


 そのことを静に伝えた後、私の足は音楽室から遠のいていき、それ以来、静と顔を合わせることなく卒業の日を迎えた。それから、なんとなく気まずい状態が続き、連絡などは一切取っていなかった。


 「私、今日、ここで待ってたら陽子が来てくれるって、なんとなく解ってた」


 静は、間に置かれてある席からこちらに身を乗り出す。

 私は、膝で顔を隠して呟いた。


 「ごめん、静。ずっと一人ぼっちにしちゃって」


 音楽室に通わなくなってからも、静が一人でピアノを弾いているのは知っていた。静を一人ぼっちにさせたくないという気持ちはあったものの、しかし、どういう顔で静の演奏を聴けばいいのか分からなかった私は、静から逃げてしまった。そのことを今までずっと後悔しながらも、静に謝るタイミングを見失い続けていた。


 静は、俯いた私の頭にそっと手を添える。


 「大丈夫だよ。だって、またここで陽子と会えたから」


 静の言葉は、私への慰めでも許しでもなく、一緒にピアノを弾いていた頃と変わらない、掛け替えの無い親友との再会を喜ぶ言葉だった。

 私は、思わず静を抱きしめ、静も応えるように私を優しく抱きしめてくれた。


 「私。私、ずっと静に会いたかった。でも、どうすればいいか分かんなくて。ほんとに、ほんとにごめんね。静」

 「うん。私も会いたかった。陽子を励ましてあげたかった。また、陽子とピアノのこと、話したかった。でも、私もどうすればいいか分かんなかったの。ごめんね、陽子」


 私と静はボロボロと涙を流し、謝りあって、許しあった。それから暫くして、落ち着いた頃。二人でぐしゃぐしゃになった顔を見合わせ、大声で笑った。

 息を切らせて仰向けになった私に、同じく仰向けになっている静が提案してきた。


 「ねぇ。久しぶりにピアノ、弾いてみない?」


 予想外の提案に、私は、目を背ける。


 「…怖いよ。一応、手術はしたから動くようになったけど、まだ、あの頃みたいには弾けないから」


 立ち上がった静は、怯える私に手を差し伸べた。


 「私が陽子の左手になる」


 そう言って、静は私に微笑んだ。

 静に手を引かれて立ち上がった時、ふと、ホワイトボードを見ると、書かれていた文字が跡形もなく消えていた。


 私は八年振りの演奏席に座り、鍵盤に手を掛ける。震える右手に、私の背後に立っている静が手を重ねる。すると、不思議なほどに緊張が解け、震えが収まった。


 「いくよ」


 静の白く細い左手が鍵盤を三回弾いた。その音は、私が最も得意とし、静の前で何回も演奏した曲、ラ・カンパネラのパガニーニによる大練習曲第三番嬰ト短調の音だった。

 私の右手は自然と動き始め、静と呼吸を合わせる。その音色には一切の違和感はなく、それどころか、静の左手が本当に私の左手かのような錯覚をしてしまうほど、私の癖を熟知していた。


 静は私以上に私の演奏を聴いてくれていたことを実感する。細かい指捌きも、鍵盤を弾く加減も、その全てが私の演奏と同じだった。そして、最後に二人で演奏を締め括る。

 振り返ると、そこには栗色の髪をした静が微笑んでいた。


 「静、ありがとう」


 窓から射す光が夕陽から朝日に変わり、私の格好も二十六歳に戻っていた。静も制服からニットの黒いタートルネックに変わっており、カッコいい大人な雰囲気を漂わせていた。


 音楽室を出ると、下の階から騒がしい声が聞こえてくる。


 隣に立つ静は、私の左手を握る。


 「みんな、あの頃から変わってるかな」


 私は静の右手を握り返す。


 「多分、変わってないよ。だって、私達も変わってないから」


 そう言って、私達は、あの頃と同じように肩を並べ、みんなの居る教室へと向かった。



end

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追憶の青春、黄昏の朝 怜 一 @Kz01

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