第32話  Shiji Temple(氏寺)

まずはここでブサキ寺院の歴史的背景をお話したい。


ブサキ寺院建立に関しては諸説あるようだ。その中でも主説と思われる内容をお話したいと思う。8世紀ごろ、ジャワ島の高僧であるルシ・マルカンディアが瞑想中に「東の太陽の登る方角になる島へ渡り、寺院を建立してヒンドゥー教を広めるように」とご神託を受けたという。


当時はまだアグン山とは呼ばれておらずトランキール山やパルワタ山といわれていたそうだ。その山に800人の信徒とともになっていたルシ・マルカンディアの第一陣には大きな災いがはばかり、任務を全うできなかったといわれている。


第二陣とともにバリ島へ渡ってきた際には、パンチャ・ダトゥと呼ばれる5種類の金蔵と宝石を寺院となる場所へ埋めてから建立したという。その場所での寺院の建立は無事に終わった。建立にようやく成功した。


その一番最初の寺院が駐車場から入ってすぐ下の広場近くになる「バスキアン・プセー・ジャガット」といわれている。その後、現在のブサキ寺院の中心となる「プラタナ・アグン・ブサキ寺院」が建立されたといわれる。


そのころにようやく、現在のブサキ寺院の形態となったということだ。


ちなみにブサキ寺院では、現在30程度の寺院が集まる複合寺院といわれている。最初に建立されたバスキアン・プセー・ジャガット寺院以外にも、プラタナ・アグン・ブサキ寺院の周りにはたくさんの小さな寺院が集まっている。また、この寺院ではバリヒンドゥー教のトゥリ・ムルティ、三大神であるプラフマ、シワ、ウィシュヌが祭られている。周りにある寺院はプダルマンと呼ばれている。バリの各血筋ごとの氏寺を祀っている。


パンデ、ラトゥ・ドゥコー、パセッ、プニャリカンなどの、マジャパピト王朝時代の王家の従者の氏寺が、最初に建立された寺院といわれる。そこから、どんどんと細かな家系へとつながっているとのことだ。


ということは、先ほど僕がアグン山へ入山する際に見た霊の行列も話がつながってくる。僕にメッセージを送ってきた彼がどの氏寺に属するのかはわからないが、そのメイン本殿であるプラタナ・アグン・ブサキ寺院へ参拝することが、彼の一同の霊魂を成仏させるに値すると僕は、その時、直感で感じ取った。僕がそんなことを考えていると、どこからともなくガムランの音色が聞こえてきた。この聞き心地の良いガムランの音楽は、なんとも言えず、このブサキ寺院の空気感に溶け込んでいると感じた。


僕「山田君、ガムランの音色がどこからか聞こえてきますね。この音色はなんだか人間の心の闇を癒してくれるような感じがしますね。」


山田「俺も先ほどからいい音色だなって感じてたんですよね。」


エディ「ガムランの音色、聞こえますか。」


ヘルマワン「僕には、聞こえませんけど。」


山田「じゃ、俺と酒井さんにだけ聞こえているってことですか。」


僕「そうみたいですね。」


僕と山田は、どこからともなく聞こえてくるガムランの音色に心奪われていた。何とも言えず聞き心地がよかったからだ。僕たち四人がブサキ寺院へ続く坂道の参道を登っていると、正装をしている老若男女30名ほどが寺院へ向かって列をなしている。


ここでバリ島の正装を少し説明したいと思う。男性と女性で正装の服装は若干異なる。


男性は、ウダンという頭に巻く布をつける。衣装はサファリという服装だが一般的には白色が主流のようだ。また腰の位置にはスレンダンといわれる腰布を巻く。サプッというサロンの上に巻く布がある。そしてサロンで締めくくり、足にはサンダルを履くのが主流のようだ。


女性は、クバヤというサファリの上に羽織るレース柄の上着を着る。色はもちろん白色のものである。下には、男性と同様にサロンを巻くといった具合だ。女性の正装の方が男性よりはシンプルである。


僕はこの正装の列になんだか親近感を持っていた。なんだか懐かしさが心の中から湧き上がってくる。どうしてかはわからない。初めて会う人たちなのに不思議である。


エディ「今日は何かの祭事があるんでしょうかね。」


僕「見学できたらラッキーですけどね。」


エディ「じゃ、僕が交渉してみましょうか。」


山田「マジですか。」


僕はエディの言葉に半信半疑だったが、見学できるか交渉してもらうことにした。


僕「エディ、お願いできるのであれば祭事を神聖な気持ちで見学できればいいんですけどね。交渉をお願いできますか。」


エディ「了解しました。」


というと、エディは列の先頭にいたカリスマ的な空気感の出ている雰囲気のある高齢の男性の傍らへ行った。その男性がおそらくその祭事の仕切りをしている人のようだった。この祭事がいったい何を目的としているものなのかはわからない。ただ、この氏寺に参拝したいと非常に強い思いが、僕の体の内から湧き出るのを感じた。


エディ「酒井さん、この祭事の見学を了承していただきました。良かったですね。」


僕「エディ、ありがとうございます。本当、ラッキーです。たまたま、この列に遭遇し祭事を見学できるなんて、なんだかこの人たちに縁を感じますね。」


山田「マジですか。こんなことって本当にあるんですね。俺、また不思議体験しちゃった感じですよ。」


ヘルマワン「酒井さんの運の良さなんでしょうね。外部の人を祭事に参加させてくれるのって、本当に珍しいんですよね。」


僕「エディ、僕たちはどうすればいいんでしょうか。」


エディ「こちらの列の最後尾についてくればいいといわれていましたよ。」


僕「そうなんですね。了解です。」


僕と山田、エディ、ヘルマワンの四人は、バリヒンドゥーの祭事を見学することができるようになった。僕はこのチャンスに何かの導きを感じ取った。


その列について行き、10分程度歩くと、ブサキ寺院の中にある氏子のお寺に到着した。


エディ「目的のお寺に着いたようですね。」


僕「どんな血筋のお寺なんでしょうか。」


エディ「それはわかりません。ただ、毎年行っている祭事のようですよ。おそらく氏子の繁栄を祈る祭事だと思います。」


僕「そうなんですね。なんだか神妙な趣になりますね。」


山田「酒井さん、すごく神秘的なパワーを感じています、俺。」


僕「山田君、僕もですよ。こういった先祖の霊を敬う習慣って、日本にもありますがだんだんとそういった気持ちが、今の日本人には薄れてきているのが、現状ですよね。またこういった素朴な感覚が残っているのもまたバリ島なんですよね。まさに神様の棲む島なんですよね。」


山田「そうですよね。俺のような若造がいうのも何なんですが、そういった先祖を敬う気持ちが薄れてきているから、日本では今までになかったような残忍な事件が、ここのところ多いんでしょうね。」


僕「本当、山田君の言う通りですよ。先祖がいたからこそ、今僕たちが存在しているわけですから、そういった先祖の方々には、敬意を払うのが当然ですよね。その気持ちが他人への気遣いの気持ちへつながっているんでしょうね。」


僕と山田は、改めて現代日本の心の貧しさを実感した。


僕たち四人は、この一族の氏寺の割れ門の前に到着した。列の先頭を仕切っていた高齢男性が僕たち四人の前に、やってきた。


高齢男性「ここからは、わたくしたち一族の氏寺です。私たちにとって、とても大切で神聖な場所なんです。神妙な面持ちで参拝をお願いします。」


エディは、その男性へ僕たち四人の紳士的な気持ちで参拝していることを告げてくれた。


エディ「いよいよ参拝です。この割れ門を通り、寺院の中に入ると、空気感が違ってくるはずです。礼を尽くして参拝しましょう。」


僕「わかりました。この割れ門の中から、すごいプラスのエナジーが僕に押し寄せています。なんだかタナロット寺院を訪れた際のインド洋からの風圧に似ていますね。礼をもって参拝します。」


山田「俺も神妙な気持ちです。礼を尽くして参拝させていただきます。」


ヘルマワン「僕もバリ島の氏寺の祭事に参加するのは、初めてなのですごく緊張しています。」


エディ「緊張しなくても大丈夫です。ただ、遊び半分での気持ちで参拝すると、この氏寺に祀られているご先祖に失礼ですから。」


エディはまっとうなことを僕と山田、ヘルマワンへ告げた。このエディの言葉が、後々、僕に直接実感として理解できることが来るとは、この時は思ってもみなかった。それとアグン山へ来る途中の先ほどの霊の列をみたことが何を意味するのか、僕にはこの時はまだ全く予想すらできなかった。


僕たちは、割れ門まで少しの石段を上った。今僕の目の前に割れ門がある。その存在感は、割れ門の大きさではなく、その割れ門から出ているオーラというか気が圧巻で僕たちを迎えていると感じた。いよいよ割れ門をくぐり、中の氏寺の敷地に入ることになった。僕が、この割れ門に足を踏み入れた一瞬、誰かの視線を感じた。この視線はこの世に存在する人の視線ではなく、この氏寺に祀られている神仏の視線のように僕には感じとれた。


僕たち四人が割れ門の中に入ると、初めに目についたのは、バリ島の寺院でよく目にする石仏であった。門を入るとすぐの左右に5体づつならんでいる。かなり古い時代につくられた石仏のようだった。石仏にはコケが若干まとってあり、その風貌も時代を感じさせるものだった。石仏の彫刻も時代を感じさせるものだった。この石仏が作られて長い時間たっているようだが、石仏には手入れが行き届いていることがうかがえる。この石仏からのエナジーで、すごく守られているというインスピレーションを僕は感じ取れた。


氏寺の本殿には、チャナン(お供え物)とバビグリン(子ブタの丸焼き)があらかじめお供えされていた。その光景とともに、境内にはバリ島の香草のお香の香りが漂っている。なんだか落ち着く雰囲気になっている。境内には男女問わず正装をしている人々が集っている。


今回の儀式は、子孫繁栄とこの一年間の皆の無事と実りの感謝をする儀式のようだった。


僕はこの氏寺の内と外ではこんなにも空気感が違うのかと思うぐらい、異なった雰囲気を感じ取った。この空気感が何かといえば、例えるならば、たとえば夏の町中の湿度の高い空気から、森林の中の渓流や滝つぼに来た時のひんやりとした感じを体で感じ取るような感覚だ。


僕は、一瞬、鳥肌が立った。この鳥肌は、怖いとかという感覚ではなく、神聖な場所で体の内から感じ取れる感覚の鳥肌であった。と、同時に僕の心の中に、ブサキ寺院へ来る途中に出くわした青年の霊が、インスピレーションを送ってきた。


僕はそのメッセージを受け取ることができた。その青年が僕へ伝えてきた。「ありがとう」といって言うように受け取った。


僕はその瞬時、この氏寺で、彼の名前を5回唱えなければと直感した。この場所で思いをなしとげたいと彼が伝えたかったことなのであろう。ということは、この一族というのは、先ほどの青年の末裔ということになる。だから、こんなにもスムーズに祭事に参加できたのであろうか。


僕の認識では、バリ島の人たちは、外部の人間を自らの氏寺に参拝させることを好まないと思っていたからだ。祭事では最初に先頭を仕切っていた高齢男性が参拝し、続いて祭事に参列している氏子の方々が、代わる代わるこの氏寺の本殿らしき建物の前で膝まづき、地面に頭をこすりつけるように手を合わせていた。長めの線香を両手で持ち、その線香を地面に置き、頭を深々と下げている。仕切りの男性が参拝を済ませたころから、どこからともなく再度ガムランの音色がかすかに僕の耳に入ってきた。


あたりにはガムランを奏でている人の姿はない。僕はこの音色がいったいどこから聞こえてくるのか不思議でしかたなかった。僕が氏寺の本殿に目を向けていると、先ほど僕へインスピレーションを送ってきた青年が、本殿の前で僕の向かいあわせに立ち、お辞儀をしてくれた。その瞬間、氏寺の境内にコバルトブルーの蝶が、一匹舞ってきた。この蝶の存在には、高齢男性も気が付いており、ほっとした表情をしていた。他の参拝者には、この蝶は見えていないようだった。高齢男性が僕の方へ近づき向かい合い、そして、僕へお辞儀をした。


高齢男性「今回の我々の祭事に参加をいただきありがとうございます。我々の先祖も喜んでいます。先ほど、あなた様にも見えたコバルトブルーの蝶が、その思いを物語っていますよ。本当にありがとうございます。」


僕は言葉を交わさず、高齢男性に向かい深々と頭を下げ、一礼をした。


この高齢男性は、おそらく、僕がどうしてこの列に参拝することになったかを最初から知っていたように感じた。それ故に、僕たち外部の人間に対し、氏寺への参拝を許可したのであろう。人間本来が持っている能力である直観力で、その高齢男性は僕たちを招き入れたと感じた。


山田「酒井さん、この氏寺の祭事はなんだか心和むというか、心現れるような空気に包まれていますね、今は。」


僕「祭事がはじまった時は、神秘的で張り詰めた空気感だったよね。」


山田「酒井さんの言われるように、すごく空気が張り詰めていました。でも、一通りの方が氏寺への参拝と終えると、その空気感があっという間に一変し、緊張感から解きほぐされ穏やかな空気に代わりました。俺、なんだか懐かしいというか、ほっとした感じでしたよ。俺の中に誰かが入ってきた感じでした。その人が解放された感覚ですよ。」


僕「そうだったんですね。」


僕は、山田のその姿に先ほどの青年の姿が重なったような気がした。今回のバリ島渡航は本当に意味深いものだと感じた。最初は、僕こと酒井拾膳のエナジーチャージだったものの気が付けば、なんだか感慨深いものになってきている。この後、バリ島へは残り10日間滞在するが、これ以降、どんなことが起きるのか本当に楽しみになった。というか本来の人間の体内から湧き出るエナジーが、溢れてしまうのではないかと思うほどだ。残りの数日の時間を、僕は山田と一緒に過ごせるとは、本当に幸せに感じた。一人僕は心に感じた。


山田「酒井さん、残りのバリ島滞在で俺は本当に人間の本来あるべき何かを感じ取れるように思えます。」


僕「山田君、そうかもね。僕の残りの滞在期間で、なんだか今までの僕では考えられない思いが湧き出るように予感がするんだよね。」


山田「酒井さんのインスピレーションというか感は当たりますからね。俺も何か俺が変わるような感じがします。いままでの俺の二十数年の価値観が、根底から崩れるような感じがします。これは俺の直感ですけどね。今の俺に言えることは、ベトナムのハノイで酒井さんに出会えて、本当に良かったってことですよ。数々のこんなに貴重な体験ができるのも酒井さんと一緒だからだと思います。酒井さんのことが、俺の家族のように感じちゃうんですよね。人間としての魅力にすごくひかれちゃうんですよね。」


僕「山田君にそんなに言っていただけるとなんだか照れ臭いですね。僕も今、山田君と知り会えて本当に良かったともいます。山田君へありがとうって言いたいですよ。」


山田「俺の方が、酒井さんにありがとうですよ。同じ時代に生きることができて本当にありがとうって思います。」


僕と山田は、お互いの出会いの意味に感謝をした。


僕と山田、エディとヘルマワンは、その氏寺の高齢男性にお礼を告げ、その氏寺を後にした。


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