part3 夏の消える日
翌日。
心咲と椋子は、Discordの試験運用も兼ねて、通話しながら勉強会を始めようとした。
本当なら舞も参加する予定だったのだが、急に用事が出来てしまい、参加出来なくなった。
『おはよ。聞こえてる?』
『おはよう……良好』
心咲は、疲弊した様子だった。
『どうしたの?』
『いや、聞いてよ……昨日持って帰ったノコギリクワガタさあ、ずっとケースの中で暴れてるの』
『あー、もしかして遠くからガタガタ聞こえるのって、それ?』
『え、音拾ってるの? もう勘弁してよお』
『や、気にしないから大丈夫。ずっとってまさか文字通り?』
『そう、夜通し。日本のクワガタってこんな暴れるはずないんだけどなあ』
心咲は、過去に飼育経験のあるコクワガタ、ノコギリクワガタ、ミヤマクワガタ、ヒラタクワガタ、オオクワガタを思い出しながら言った。
『ケースが狭いとか?』
『椋ちゃん、飼育ケースね、ヘルクレスオオカブトが余裕で動き回れるようなやつ』
『いやデカ過ぎんだろ……』
ヘルクレスオオカブトとは、世界最大のカブトムシで、最大で一八〇ミリメートルにもなる。頭の上下から生えた長い二本角と、湿度によって黄色や黒になる上翅が特徴だ。
『余ってたのがそれしかなかったんですぅー』
『そ、そう……。でも、ちょっと心配だね』
『うん……』
椋子に言われて、心咲は不安そうに同意した。
『どんどん体力消耗しちゃうし、体のいろんな所が壊れちゃうんじゃって……』
『だよね……』
会話が一旦途切れ、少しして椋子が心咲に話しかける。
『あのさ、今から見に行ってもいい?』
『ふえ?』
唐突な提案に、心咲は少し驚いた様子で聞き返した。
『遠くでガタガタやってるのと、心咲ちゃんの声聞いてたら、ね』
『いや、大丈夫だってば……』
心咲が慌てた様子で止めたが、
『でもさ、心咲ちゃん、入りから声が大丈夫そうじゃなかったじゃん?』
『それは……』
『友達が困ってるのに、力を貸さないのは、違うと思うんだ。……って、舞ちゃんなら言うだろうなって』
『言うかな?』
『言うと思うし、そうしたい』
『…………。わかった。じゃあ、お願い』
『了解。一旦切るね』
§
「──くしゅん! ……うう」
舞は、突然くしゃみをした。
〈大丈夫かい? 夏風邪というやつかな? バイタルに問題はなさそうだけど〉
ふいに、舞は誰かに話しかけられた。男声だろうか。優しい声音だ。
「あ、ウィリアム……」
舞は呟き、右耳に付けたワイヤレスイヤホンに触れた。その仕草は、どこかわざとらしかった。
舞は歩きながら、ウィリアムとの会話を続ける。
「誰かが噂してるんでしょう。心咲とか、椋とか」
〈噂されたらくしゃみが出るのかい? どうして?〉
質問を受けて、舞は困った様子で答えようとする。
「どうして、って……昔からそう言われてる、のかな? 分からない。今度調べとく」
〈ありがとう〉
会話が途切れた。話す事がなくなったらしい。
少しして、ウィリアムが舞に話しかけた。
〈この感覚は……怖いのかい?〉
「……怖いよ」
〈そうか……逃げても、いいんだよ? 僕が代わりに戦う〉
「それ、私が戦うのと同じでしょう?」
舞は、少し呆れた様子で答えた。
〈…………。それは、そうだけど〉
「どれだけ逃げても、いつかは戦う事になるだろうし。それに、」
そこで区切って、舞は周囲から聞こえてくる音に耳を傾けた。
遠くから車が走る音が聞こえてきた。数は四つ。
夏だというのに、酷暑でもないというのに。
鳥の声も、セミの声も聞こえない。その姿形、影すら見当たらない。
「被害がこれ以上広がらない内に、私が何とかしなきゃ」
〈うん。奴の能力を考えると、早く倒した方がいい。それと、『私達』、だと嬉しい〉
舞は意外そうな表情をして、ニコリと笑った。
「じゃあ、『私達』で」
再び、会話が途切れた。
ややあって、舞が深呼吸するように溜め息を吐いた。
「何ていうか、さ……」
まるで、途方もない、どうしようもない問題に直面したかのような表情をしていた。
「こんなにも──生物学的な意味で、なんだけどね。こんなに性別で悔やむような日が来るとは、思ってもみなかった」
〈? 人間って、そういうものなのかい?〉
舞は返答に困り、自身の知識の範囲でこう答えた。
「よりけり、です」
〈そうなのか……。君は、今どうしてそう考えているんだ?〉
「体は鍛えてないし、格闘技は
〈…………。どう励ませばいいか、判らない〉
舞は、そっと目を伏せた。
「ありがとう、ウィリアム。その気持ちだけで、たぶん十分」
〈そ、そうか。……そろそろ、近いよ。気を付けて〉
ウィリアムに言われて、舞はハッとした表情で視線を上げた。
いつしか、昨日の美術館と公園のすぐ近くまで来ていたのだ。
「……うう」
〈本当にやるなら、覚悟を決めた方がいいよ〉
「覚悟なんて、決めきれないよ……」
舞は弱音を吐き、昨日調査を断念したあの場所に向かって足を踏み出した。
§
同時刻。
椋子は市営住宅にある心咲の家に到着していた。
「わざわざごめんね。暑かったでしょ?」
「いいって心咲ちゃん、謝らないでって。代わりに、後でアイス一つもらうね」
「ゲンキンだなあ……」
椋子はえへへ、と照れ笑いした。
「ん? 心咲ちゃん、お母さんと妹ちゃんは?」
「お母さんは仕事。
「そっか。で、本題なんだけど、件のノコギリは?」
「あ、こっち。私の部屋に」
心咲はそう言って、椋子を自分の部屋に案内した。
飼育ケースは、ベッドと勉強机から遠ざけられるように、部屋の隅に置かれていた。
ノコギリクワガタはその中を忙しなく、ケースの角に体をぶつける事も構わずに動いていた。時折動きを止めては、急に飛行を始め、ケースに激突して墜落していた。
「お、っと?」
「これが夜通しなのよ……」
「成程……」
椋子は親指と人差し指で顎を挟み、暫く考え、
「これ、暴れだしてからケース開けてみた?」
「ううん、開けてない」
「そっか。……いっそさ、開けてみるのは?」
「ええっ?」
提案を聞いて、心咲は困惑した。
「もしかしたらマットとかゼリーの問題かもしれないし」
「……あー……。分かった、やってみる」
「そう来なくっちゃ」
「開けた瞬間こっちに飛んでくるかもしれないから、気を付けてね」
「ラジャ」
蓋を完全に持ち上げると同時に、ノコギリクワガタが鞘翅(注:上翅が外骨格化したもの)と後翅を開き、あっという間に飛び立った。
そうして、蛍光灯に向かう──という事はなく、
「…………」「…………」
壁に激突して落ちては飛び、壁に張り付いては飛びをひたすら繰り返し始めた。
「「え?」」
二人の声が、完璧に揃った。
「心咲ちゃん、あそこに甘いものこぼしたりした?」
「してないよ。冴理も……ないと思う」
「じゃあ、これは何?」
「……分かんない……」
心咲と椋子は、ただ混乱する事しか出来なかった。
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