第28話:後輩が俺の手を握ったら


「まさにおあつらえ向きのFKだね」


 隣で呟く大滝さんの言葉に、私は黙って首を縦に振った。

 

「おや、天野さんも知っているのかい?」

「はい、中村俊輔選手が決めた伝説のFKですよね」

「そう。あれで中村俊輔の名前はサッカーの歴史に刻まれることになった」

「先輩はあの試合の日に生まれたんですよ」

「ほお。それは知らなかった」

「そして現地で試合を見ていたお父さんが、その偉業を称えて先輩に『俊輔』って名前を付けたんです」

「なるほど。ならばこのFK、俊輔君がどんなキックを蹴るのかは一目瞭然だね」


 大滝さんでも知らなかったんだから、相手のチームの人だって先輩の誕生日までは知らないと思う。

 だけどこの位置と距離、そこに中林俊輔という名前まで当てはまれば、それを警戒されるのは当然。

 その証拠に窪塚さんがゴール前から離れて、先輩から10メートル離れたところでまさに壁となって立っている。

 先輩が直接ゴールを狙ってくると信じているんだ。

 

「キーパーも相当に警戒してるし、さすがにこれは決めるのは難しいだろうね。でも逆に言えば、ゴール前にボールを放り込めば得点出来る可能性は高くなった。それに天野さんは中村俊輔がチームを優勝に導いたFKを知ってるかな?」


 今度は首を横に振った。

 私が知っているのは、例のマンチェスター・ユナイテッド戦だけだ。

 

「2007年4月22日のキルマーノック戦のことだ。距離は少し短いがやはり同じような位置でFKを獲得した中村俊輔は、マンチェスター・ユナイテッドの時とは逆のファーサイドにゴールを決めている。その直後に試合終了になったことからも、シチュエーション的にはむしろそちらの方が近いと言えるだろうね」


 狙うのならむしろそちらの方がいいだろうと大滝さんは言うけれど。

 先輩がどこにボールを蹴るのか、私は知っていた。

 

 

 

    ★ ★ ★

 

 実を言うと、俺は公式戦でFKをほとんど決めたことがない。

 練習ではあれだけ綺麗に放り込んでいたのに、何故か試合になるとなかなか上手く飛んでくれないんだ。

 まぁ、試合だと壁になるDFも本気で飛ぶし、GKも死に物狂いでゴールを死守するものだしな。練習と違い簡単にゴールを決められなくて当然だと俺はずっと自分に言い聞かせていた。

 

 だけど本当はそうじゃない。そうじゃなかったんだよな。

 今なら分かる。どうして俺のFKが試合で決まらなかったのか。

 

 ひとつ大きく深呼吸して、睨みつけていたゴールからふと目線を外した。

 芝のピッチとは言え、試合会場はごく普通の運動公園の一角にあるサッカー場。観客席なんて立派なものはなく、ほとんどの人は金網で仕切られた向こう側から立ち見するしかない。


 そしてその観客も多くは試合に出ている奴らの親で、当然だけどその視線は試合中ずっと自分たちの息子へ注がれている。

 が、ごく稀に観客の視線が一か所に集まる時がある。それがこのFKだ。特に試合も終わり間際、この一発が勝負を決めるとなると、さすがに視線はキッカーへと集中する。


 決めろ。あるいは、外せと怨念を込めた目が俺に注がれる。

 

 それが苦手だった。

 つまり、俺はビビリだったんだ。

 

 それはFKだけのことじゃない。きっと俺の抱えていたすべての問題の根本がそこにあったんだと思う。

 

 背が伸びない。だから大きくなった窪塚にまるで歯が立たず、その試合で俺はBチームへ落とされた。

 監督はそれで俺が奮起するだろうと期待していたのかもしれない。だけど俺は見切られたと思って、練習に行かなくなった。

 どうしてあの時、俺は逃げ出してしまったのだろう。今ならその答えが分かる。俺はこれ以上自分が傷つくのが怖かったんだ。

 いくら練習しても窪塚には勝てない。俺は絶対にあいつを越えられない。そんな現実を見せつけられるかもしれないのがたまらなく怖くて、俺は自分の背が低いことを言い訳にしてサッカーを辞めた。

 

 クラブチームの練習に行かなくなった俺。それでもまだ中学でサッカー部に入るという道もあったはずだ。

 けれどそれも俺のビビリな心が拒否した。

 怖かったんだ。一度みんなから離れた俺がクラブチームで通用しなくなったからまた一緒にやろうと近づいたところで、もし拒否されてしまったら? ただでさえ矢上以外とは疎遠になってしまっていたんだ。そうなる可能性は大きいと思った。

 

 結局俺に出来たことと言えば、誰も来ない旧美術室に立てこもって時間を無駄にすることぐらいだった。

 今から思えば、後悔することばかり。口では偉そうなことを言っておきながら、いざとなったらビビってしまうこの性格を何とかすることは出来なかったのだろうか?

 

 まぁ出来なかったんだろうな。

 俺自身は勿論のこと、俺の親も、俺を育てることに執念を燃やすクラブチームのコーチや監督ですらも。

 そりゃそうだ。先天性にしろ、後天性にしろ、一度身についてしまったものを剥げ落とすのは簡単じゃない。


 だけど天野さんはやってくれた。


 自分の恥ずかしいはずの裸をさらけ出してまで俺のことを詳しく観察し、そうして描き上げたたった一冊のスケッチブックで俺の中で巣くっていたビビリ虫を追い払ってくれた。

 

 おかげで今、俺はこうしてピッチに立っている。

 50人ほどの観客の視線を一身に浴びても動じることなく、微塵も震えない両足で立っていられる。

 ああ、きっと今ならここが100年以上の伝統を誇る名門スタジアムで、5万人を超えるサポーターたちが言葉を忘れてじっと息を飲み、誰もがみんな俺のゴールを期待し、喜びが爆発する瞬間を今か今かと待ち望みながら見つめられていたとしても。

 

 俺はきっとこのFKを決めることが出来る。

 

 再び視線をゴールに向けた。

 何やってんだ早く蹴れとばかりに神が俺を睨みつけていた。

 分かった分かった。ちゃんと蹴ってやるから、お前もいい仕事しろよ。

 

 右手を上げる。

 と、それまでマークについていたDFとポジションをめぐって押し合っていた後輩が相手の背後――ゴールの奥側ファーサイドへとダッシュした。

 その動きにつられるのはマークしていたDFだけ、じゃない。キーパーもまたそれまで警戒していたゴール手前側ニアサイドへの意識が一瞬弱まる。

 

 俺は左足を振りぬく。

 視界にちらりと両手を胸の前に合わせる天野さんの姿が見えた。

 

 

 

    ☆ ☆ ☆


 翼がボールを空高く舞い上がらせた。

 大きな翼に命を吹き込まれたボールは、もう誰にも止めることは出来ないだろう。

 たとえ窪塚さんが懸命にジャンプしても。

 キーパーが必死になって手を伸ばしても。

 ボールは与えられたわずか1,2秒の自由を謳歌して、その場所を目指す。

 

 なんて綺麗な軌跡なんだろう。まるで何の躊躇いもなく引かれた筆のように力強く、滑らかで、美しい。

 それは私がどうしても描いてみたいと願った、先輩の才能だった。

 裸を見られるなんて本当は顔から火が出るぐらい恥ずかしかったけれど、それでも見てみたいと思った先輩の可能性だった。

 先輩のヌードデッサンを何度もしたけれど、結局私はこれを再現出来なかったように思う。

 だけど今日ここで、この瞬間に立ち会えた。


 見たかったものを見ることが出来た。

 

 ボールがゴールの片隅に吸い込まれていく。

 もうすぐ歓喜の声が咲く。

 誰もが息を飲んでボールの行く末を見守る中でただひとり――先輩だけが。

 

 もうボールを見ていなかった。

 

 

 

    ★ ★ ★

 

 FKが決まった瞬間は見ていない。

 ただ、ボールがネットを揺らす音は聞こえた。

 一瞬置いてゴールを証明するホイッスルがピッチに鳴り、次いで試合終了を知らせる長い三つの笛が響き渡る。

 その後に湧き上がったのは歓喜やため息が混ざり合った大歓声。それに混じって「おい、俺に合わせるんじゃなかったのかよっ!」って誰かの怒号も微かに耳が拾ったけれども。

 

 全部無視して、俺は天野さんに向かって駆け出していた。

 

 伝えたいことがいっぱいある。

 やったぞ、とか。

 見てたか、とか。

 ありがとう、とか。

 ああ、多すぎて逆に何を最初に言えばいいのか分からねぇ。

 どんどん天野さんの姿が大きくなってくるのに、なんだか頭を抱えたくなった。

 

 その時だ。

 何か眩しいものでも見つめるように目を細めながら笑顔を浮かべる天野さんが、ゆっくりとその両腕を左右に広げた。

 

 あ、そっか。それでいいのか。

 言葉なんてなくても、この感情を伝えるには確かにそれが一番いいかもしれない。

 

 俺はユニフォームを脱いで空高くへ放り投げると、待ち受けていた天野さんの身体を強く抱きしめた。

 そんな俺の抱擁に天野さんも俺の背中へと腕を回して答え……あれ、回してこないな?

 

 てか、そうじゃないとばかりに俺の二の腕にそっと手を触れてくる。

 あれ、俺、なんか間違った?

 困惑しつつ、まさに目と鼻の先にある天野さんの顔を見る。

 仄かに頬が赤い……ような? あっ、目が合った途端、まるでりんごのようにもっと赤くなった! んでもって露骨に目を逸らされたぁ!?

 

 両手を広げたポーズからこれはハグしかないと思ったのに、どうやら決定的な間違いを犯したらしい。

 なんてこった、やっちまったな、俺。

 失敗を証明するかの如く、天野さんは抱きしめていた俺の右腕をそっと身体から引き離すと、その手を強く握りしめてくる。

 おいたが過ぎると怒っているのだろうか……。

 

「えっ!?」

 

 と、不意に天野さんが握りしめていた俺の右手を彼女の服の中へと導いてきた。


「え? えっ!?」


 一体何をしたいの、天野さん!?!?

 困惑が大混乱へと変わり、頭の中を幾つものハテナマークが飛び交うこと数秒後――。

 

 もにゅん。

 

 これまた唐突に何か柔らかいものを握らされた。


 えっ、なんだこれ。マシュマロみたいに柔らかくて、人肌みたいなぬくもりがあって、そしてなにより手のひらに収まりきらないほどSUGOI DEKAI。

 あー、これに近いものをひとつだけ知っている……でもまさかアレじゃないよな? そんなわけないよな? ははは、そりゃそうだ、さすがにアレの訳がない。

 

 でも、念のためにちょっと指を動かして確かめてみよう。

 もみもみ。

 

「せ、先輩、もっと優しく……そんなに強く揉まれたら……その、取れちゃう」


 途端に天野さんが中学生にあるまじき色っぽい声を漏らした。

 

「やっぱりアレじゃねぇかっ!」


 慌てて天野さんの服の中から手を抜き取った。すげぇ、まだ手のひらにあのぬくもり、感触が残ってるよって、余韻を堪能してる場合かっ!

 

「天野さん、いきなり何をするんだよっ!?」

「え? だ、だってほら、試合に勝ったらって約束でしたから」

「だからってこんな突然、しかもみんな見てる中で!」

「で、でも、服は脱いでませんから皆さんきっと気付いてないですよ」


 本当かよ? でも現役時代はいつも冷静沈着で驚いた顔を見せたことのない大滝さんが、隣でこれでもかってぐらい目を見開いてガン見してるんだけど!

 

「それであの……わ、私のおっぱい、どうだったでしょうか?」


 天野さんが恥ずかしそうに顔を伏せながら小声で尋ねてくる。


「いや、どうだったかと言われても」

「がっかりさせてしまいましたかっ!?」


 泣きそうな表情を浮かべ、慌てて顔を上げる天野さん。


 そんなわけないだろ! だっておっぱいだよ、OPPAI! しかもただのおっぱいじゃない! サンマリーさんからの血を受け継いだ由緒正しき正統派巨乳中学生のおっぱいなんだ! そんなもの最高に決まってるじゃないかッッ!!!


「えっと、そうじゃなくて……」

 

 とは言ってもそれをこんなところで、しかも隣で大滝さんが聞き耳を立てている状態で言えるはずもない。

 上手く胡麻化すにはどうすればいいのだろう?

 

 俺の返答を待ちわびるように天野さんがじっと俺を見てくる。その視線から逃れるように、俺は目を少し下に逸らした。

 が、そこには白いブラウスとその上に羽織った薄い桜色のカーディガンを押し上げるように、今話題の天野さんのふたつの膨らみが俺を逃さないとばかりに待ち受けている。

 ああ、さっきはこれを直に揉んじゃったんだよな。ヌードデッサンでは何度も見てきたけれど、触ったのはこれが初めて……。

 

「ってアレ? あの、天野さん、さっきはその、直に触ったわけなんだけど……」

「はい! そ、そうです! 直に触」

「声、もっと小さくして! で、ひとつ質問なんだけど、もしかして今日、ブラジャーしてない?」


 そう、本来ならたとえ服の中に手を誘われたとしても、異性からのおっぱいタッチを防ぐ最終防壁・ブラジャーが立ち塞がるはずなんだ。

 なのにさっきはそれらしきものを外す動作はなく、いきなりむぎゅっとダイレクトなおっぱい触感が俺の手のひらに伝わってきた。

 その事実から導かれるのはただひとつ。今日の天野さんはノーブラということだ。

 でも、一体どうしてノーブラなのかは全然分からない。天野さんはああ見えてヌードデッサン以外の時は結構ガードが堅いのに一体どうして?

 

「それは……だって先輩を信じてたから」

「俺を信じる?」

「はい。先輩なら絶対勝つって、私、信じてたんです」


 だからその場ですぐ約束を守るためにはブラジャーは邪魔だなって、と俺にしか聞こえないぐらいの囁き声で天野さんが恥ずかしそうに説明してくれた。

 いや、別に試合終了してすぐに揉ませてくれる必要は全くなかったわけだが、まぁ天野さんらしいと言えばらしい。

 だってこの子、俺の裸を描くためなら自分が裸になるのも厭わないほど、思い込んだら一直線な子なんだから。

 

「あのな天野さん、ちょっと耳を貸して」

「あ、はい!」


 ようやく俺から答えを聞かせてもらえると、嬉しそうに天野さんが癖毛を押さえ込んで可愛らしい耳をこちらに向ける。

 さっきまでは上手く胡麻化すつもりだったけれど、こうして全力で俺を信じてくれたんだ。俺だってここは逃げずにちゃんと伝えるべきだと思う。

 

 だから俺は天野さんの耳に口を近づけると、ただ一言だけ「また触っていい?」と伝えた。


 それが天野さんの期待する返答なのかどうかは分からない。もしかしたら調子に乗った変態と思われてしまうかもしれない。

 だけど「最高だ」と伝えるのも何か恥ずかしいじゃん。そこを「また触りたい」と少しぼやかした表現で、そのクオリティにとても満足しているという気持ちを察してほしい。

 てか、触ったと言っても実際は確認のためにひと揉みしただけで、出来ることならば今度はもっと落ち着てじっくりとその触感を楽しませてほしいってのが本音中の本音だ。

 

 天野さんの耳から口を離す。

 今度は俺が天野さんの反応を待つ番とばかりに、その表情を恐る恐る伺うと――。

 

 天野さんの唇が、離れていく俺の唇をしっかりと捉えてきた!


「はい! 大好きです、先輩!」

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