第18話:フッカツ!?

「改めて挨拶しようか。初めまして、大滝克己おおたき・かつみだ」


 唖然とする俺たちに、男性は自ら名乗った。

 やっぱりそうか!

 大滝克己、現役時代はその鉄壁なディフェンスで日本代表にも選ばれ、引退後は指導者としての道を進み、現在はU-1717歳以下日本代表の監督を務めている。

 言わば日本サッカー界のレジェンドのひとり。そんな人がどうしてここに!?

 

「実はずっと君のことを気にしてたんだ、中林……いや、俊輔君と呼んでいいかな?」

「え? ああ、はい。でも、どうして俺なんかを?」

「だって小6の時の君は凄かったらしいからね。なんせ私が育て上げた寛治かんじがまるで歯が立たなかった」

「寛治?」

窪塚寛治くぼづか・かんじだよ。君にとって忘れられない名前だろう?」


 ゾワリと。

 足元に纏わりつく冷気が一気に駆け上がって、背筋がたちまち凍り付いたのを感じた。

 下の名前は知らなかった。でも窪塚って名字の選手ならよく知っている。

 

 俺が小学校の大会でチンチンにし、そしてその二年後の大会で逆に何もさせてもらえなかった相手――。

 俺にサッカーを諦めさせた奴の名前だ。

 

「寛治は私の甥っ子でね。それこそ彼が小さい頃からサッカーを教えていた。才能があったんだ。彼ならきっと代表を、私以上に強く出来ると確信している」

「…………」

「だけどそんな寛治が君にはまるで敵わなかった。相当ショックだったんだろう。試合が終わった後、ボロボロに泣きながら私のもとへ電話したきたもんさ。『もうサッカーなんて辞める!』って」

「え!?」

「だから言ってやった。『寛治、辞めるならそれでも構わない。だけど負けっぱなしでいいのか? なにもせずに、ただ負けたまま逃げるようにやめていいのか?』って」

「…………」

「寛治は答えたよ。嫌だ、って。だから私が再び彼を鍛え上げた。次に相対した時、君に決して負けないよう、逆に今度は君に同じ思いをさせる為に、私の持っているもの全てを寛治に叩き込んだ。中学生にはかなり辛いトレーニングだっただろう。でも、寛治は見事にやりきって、そして君にリベンジした」

「…………」


 何も、言えなかった。

 知らなかった。あいつが俺のせいでサッカーを辞めようとしていたこと。そして俺を倒す為にもう一度這い上がってきたこと。しかもその指導者は長年日本のDF陣を引っ張ってきた大滝克己だったなんて。


 もしそんな事情を知っていたら、俺はきっとあの試合でも警戒し、最初から気を引き締めて挑んだことだろう。

 なのに小学校の時に完勝したからって、最初から舐めてかかっていた。

 そこに予想外な苦戦が加わって冷静さを失い、いつものプレイが出来なくなってしまった。


「ちょっといいですか、おじさんッ!」

「なんだい、お嬢さん?」

「おじさんが何者なのか私にはちっとも分りませんけど、さっきから聞いてたら何なんですか。たった一回勝ったぐらいで偉そうな顔をしちゃって。そんなの先輩がたまたま体調を崩していた可能性だってあるじゃないですか!」

「天野さん! やめるんだ!」

「いいえ、やめません。いいですか、先輩ほどサッカーが上手い人はいないんですっ! 先輩ほど立派な翼を持っている人なんて、この世の中には――」

「だけどその翼はあの試合でボロボロにされてしまった」


 怒気を孕んだ天野さんの主張を、冷徹な大滝さんの言葉が打ち破った。

 

「お嬢さん、さっき『たった一回』って言ったね? そうだ、たった一回だ。だけどその一回で絶対的な自信を勝ち取ることもあれば、逆にこれまで大切に築き上げてきたものが全て崩れ落ちてしまうこともある。かつての寛治がそうであったように。今の俊輔君がそうであるように、ね」

「そんな……。で、でも、それも仕方ないじゃないですか! だって先輩は背が伸びなくて……それは先輩にだってどうしようもなくて」

「そうだな、どうしようもないことは確かにある。だけどね、それに悲観して何もしないのでは現状は何も変わらない。かつてジーコは言った。ドイツW杯で日本が勝てなかったのは相手と体格差があったからだ、と。そのコメントに絶望した関係者もいたことだろう。が、ならばと考えた人間もいた。体格で勝てないのならば、もっと別のところで勝てばいい。それはスピードであり、テクニックであり、戦術であり、スタミナであった。中には小さな体であっても体幹を徹底的に鍛えることで、欧米の大柄な選手にも負けない身体を手に入れた選手もいた。中には献身的なプレーを続けることで、自分がスポットを浴びることがなくとも、チームを勝たせ続ける選手もいた。彼らは決して最初から全てに恵まれていたわけではない。だが彼らは諦めなかった。絶望しなかった。何かと理由を付けて自分を納得させる負け犬にはならなかったのだ」


 さすがの天野さんも、この大滝さんの正論には何も言えなくなってしまった。

 そしてそれは俺も同じ。いや、もともと俺に言い返せることなんて最初から何もなかった。

 そうだ、俺は逃げたんだ。

 寛治あいつに何もさせてもらえず、監督から二軍落ちを告げられ、ずっと心の奥で自分の身長が伸びないことを不安に感じていた俺の心はぽっきりと折れてしまった。

 

「そしてそれはきっと君も同じ……寛治に負けてもきっと這い上がってくると思っていた。だから君があの日から練習にも来なくなったと聞いた時は失望したよ」

「…………」

「だが、今日ここに来て良かった。練習には来なくなっても、どうやらトレーニングは欠かさなかったみたいだしね」

「え? あ、あの……?」

「来週の日曜日の試合に君を出すよう、監督さんには進言しておくよ」

「はぁ!? でも、だって俺、サッカーはもう」

「君が勝手に練習へ来なくなっただけで、除籍になったわけではないようだ。監督さんもまだ君のロッカーはあるし、そもそも今はリハビリ中だと言ってたしね」


 ウソだろ? 俺、もう一年近く練習に行ってないのに、まだ在籍してることになってるのかよ!?

 驚いた。とっくにクビになっているもんだとばかり思ってた。

 練習に来なくなった奴を俺は何人か知っている。そしてそんな奴らのロッカーは、一ヵ月もしないうちに名前が消されていたんだ。

 なのにどうして俺のロッカーはまだあるんだ?

 もしかして俺、まだ見捨てられてないのか? 全然背が伸びず、期待を裏切っちまったというのに、まだそんな俺に何か可能性があると思ってくれているのか?

 

 てか俺、もしかしてまたサッカーが出来るのか?

 

「くしくも今度の日曜の試合は、あの時とまったく同じカードだ」

「……え?」

「寛治が勝つか? それとも俊輔君がリベンジし返すのか? 今から楽しみにしている」


 にわかに沸き上がった心の熱が、その言葉であっという間に冷え込んでいくのが自分でも分かった。

 またサッカーが出来るのは嬉しい。

 それにリベンジのリベンジをしたい気持ちだってある。

 だけど同時に一年前のあの試合が、頭の中で鮮明に蘇ってくる。

 

 何をしても歯が立たず、何一つとして自分のプレイをさせてもらえなかった。小学生の時は俺の方が上だったのに、背が伸びなかったせいで、いつの間にか完全に逆転されてしまったあの悪夢……いや、厳しい現実。

 それをまた思い知らされてしまうのかもしれないと思うと、情けないけれど俺は何も言えなくなってしまった。


「ふふっ。それでは私はこれで。日曜日の試合、楽しみにしているよ」


 そんな俺を見て、大滝さんがニヤリと笑って背中を向ける。

 何か言わなくちゃいけないと頭が懸命に訴えてきた。

 でも一体何を言えばいい?

 ご来場ありがとうございました? 

 お会いできて光栄でした?

 サインください……は、絶対違うな。

 

 ああ、悩んでいるうちにどんどん大滝さんの姿が遠ざかっていく――。

 

「勝ちますよ!」


 その時、俺の横で突然声が上がった。

 

「先輩は勝ちます。絶対に勝ちます。見ていてください!」


 天野さんが必死の形相で、俺の代わりに声をあげてくれていた。

 大滝さんは振り返らず、右手を軽く振って部屋を出ていく。

 それが「頑張れ」という励ましか、それとも「本当に出来るのか?」という挑発なのか、俺には分からなかった。

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