第8話:キングスライムかと思ったらお母さんでした

 まだ太陽も昇ってこない早朝四時。

 ハリウッドスターからも「こんな時間に何をしてるんだい?」と問われるそんな時間に、最近の俺の一日は始まる。


 眠っている母さんを起こさぬよう静かに家を出ると、ボールを脇に抱えて近くの土手までランニング。土手のジョギングコースに着いたらボールを地面に下ろして、他の早起きランナーの邪魔にならないよう気を付けつつドリブル開始だ。

 朝練を始めたばかりは脚が思ったように動いてくれなかったけれど、今ではなんとか足に吸い付けるドリブルで他のランナーたちも抜くことが出来るところまで回復した。

 太陽が世界を照らし始める中、思い通りのドリブルで駆け抜ける気持ちよさは、三文以上の価値があると今では確信している。

 

 ドリブルで身体が十分に温まる頃合いで見えてくる鉄橋で、俺は土手から河原へと降りた。

 そこからはまずリフティングで練習。リフティングなんてただボールをポンポンと地面に落とさず蹴るだけのお遊びに見えるかもしれないけれど、そうじゃない。小学校のサッカーチームのコーチが「ボールの扱いが上手くなりたかったらリフティングをやれ」と口酸っぱく言っていたように、この簡単な動きの中にはボールのコントロールやバランス感覚を養う最適なトレーニングが詰まっている。

 いわゆるテクニシャンと呼ばれる人たちが軒並みリフティングを得意としているのは、それこそ子供の頃からひたすらやっていた賜物だからだろう。

 

 ボールに緩急を加えて実際のプレイを想定師ながらリフティングをしていると、鉄橋に電車が近づいてくるのが聞こえてきた。

 よし、ここでスペシャル特訓。慌ててリフティングを中止して鉄橋の下へ急ぐ。ほどなくして電車が鉄橋の上を走る。と、同時に俺はコンクリートの壁へ思い切りボールを蹴りつけた。

 いわゆる壁打ちって奴だ。堤防の向こうにはすぐ民家があるので、こんな朝早くには音が大きすぎるので普通は出来ない。だから電車の通過音に紛れて練習する。しかも。

 

「うおおおおおおっっっっ!」


 ボールを思い切り蹴ると同時に出来るだけ素早く、前方へとダッシュした。

 ただの壁打ちならボールを蹴るコントロールの練習にしかならないが、こうすれば勢いよく跳ね返ってきたボールを上手くトラップする練習にもなる。しかも続けて繰り返すうちに壁との距離がどんどん短くなって難易度が跳ね上がるのもいい。トラップし損ねてボールを後ろに逸らしてしまうとボールが川に落ちてしまうから、何があってもそれは避けようと必死だ。

 

 電車が来るまではリフティング、電車が来たら壁打ちダッシュを何度も繰り返し、最後に土手をゴールに見立てたフリーキックの練習を数本やって朝練終了。

 ランニング、ドリブル、リフティング、壁打ちダッシュ、フリーキック。

 うん、我ながらゴキゲンな朝練だ。

 

「って、おおい、これ完全にサッカーのトレーニングじゃねぇか!」


 サッカーはもう辞めたっていうのに、何やってんだよ俺ェェェェェェl!?!?

 我ながら未練がましいにもほどがある。でも、今はまだ何か「これだ!」っていう別の道を見つけ出せないし、同じ身体を動かすのならやっぱり自分でも納得出来ることをやりたいんだよなぁ。

 

「ああ、背が伸びてくれねぇかなぁ」


 そんな状況についつい愚痴も零れる。

 そうなんだよ、背さえ伸びてくれたら全て解決なんだよ。身体が大きくなれば、大好きなサッカーに戻れるんだ!

 

 でもそう上手く行かないことは、この2年間で嫌というほど知っていた。

 



「先輩の身長、伸びるかもしれませんよっ!」


 積年の願いがいつの間にか口に出ていたらしい。

 放課後の旧美術室、どこかぼんやりとした気分で絵を描いていたら、いきなり天野さんがそんなことを言ってきた。

 

「は? なんだよ急に?」

「私、思い出したんです。天野家に伝わる成長法を!」

「なんだそれ、嘘くせぇ」

「嘘じゃないですよ。証拠にほら、その成果がここにあります!」

「ここってどこに?」

「私ですよ、私。ほら、こんなに大きく成長しました!」


 天野さんがどうだとばかりに大きく両手を左右に広げる。

 その中心にあるふたつの膨らみが、天野家成長法の実用性を雄弁に語っていた。

 

「実は私、生まれた時は未熟児だったんですよ。それが今ではほら、身長もみんなと同じくらいになりました!」

「あ、うん」


 おっぱいは同じくらいどころか、日本人女性の平均値を遥かに上回ってるけどな。

 

「なので先輩の身長だって伸ばせるかもしれません!」

「えーと、それはどうだろう?」


 胸が大きくなるのと身長が伸びるのは別物のような気がするんだが。

 

「大丈夫ですよ! よし、そうとなったら善は急げです。今から私の家に来てください!」

「は? 天野さんの家? なんで?」

「私んちで先輩を大きくしちゃいますよ!」


 天野さんが俺の手を引っ張って、強引に椅子から立ち上がらせた。

 その力が予想外に強くて驚く。

 また何か変なスイッチが入っちゃったらしい。まさか自分ちの家で俺の背だけじゃなく、アレまで大きくしちまうようなことを企んでいるんじゃないだろうな?

 

 天野さんのことだから決してそういうつもりがないのは分かっている。

 だけど結果としてそうなってしまうのが、天野さんの恐ろしいところだ……。

 

「いや、やっぱり天野さん、俺……」

「さぁ、行きましょう、先輩!」


 一応抵抗してみた。

 が、これまでの事からも分かるように、一度こうなった天野さんを止めるのは不可能。

 ずるずると引っ張られるようにして旧美術部を後にした俺は、仕方なく心に誓いを立てる。

 

 なにがあっても欲情に負けてはいけないぞ――と。

 

 

 

 天野さんの家は川を挟んで、ちょうど俺の家の反対側にあった。

 距離的には意外なほど離れていない。でも、川で小学校の学区が分かれているから、中学生になるまでお互いに知り合う機会がなかったんだな。

 

 長閑な住宅街に佇む、二階建ての天野邸。小さな庭はちゃんと手入れが行き届き、白雪姫に出てくる七人のこびとが植木や花壇の脇からひょいと顔を出している。

 普通の精神状態なら単純に可愛いなと思えたことだろう。だけど今は初めて天野さんの――ふたつ年下とは言え、同世代の女の子の家にお呼ばれされたとあって、今更ながら俺の心臓はさっきからバクバク鳴っている。

 そんな状態で見ると、まるで小人たちが「おい、しずくが男を連れてきたぞ」「ひっひっひ、男だ、男だー」「男はアレをちょん切って犬の餌にしてしまえ」と、こそこそ話しているような気がしてならなかった。

 

「じゃあ先輩はそのあたりに座って待っていてください」

「…………え? ああ、うん」


 一体どれほどまでに緊張していたのか。玄関を抜け、二階にある天野さんの部屋に入るまでの記憶が一切ない。

 気が付けば見知らぬ部屋にアホみたくボケ―と突っ立っていて、天野さんが出ていくのをこれまた馬鹿みたいに見送っていた。

 いかんいかん、落ち着け俺。

 ここはひとつ深呼吸だ。

 

 スーハースーハースーハースーハースーハー……

 

「ブハッッッッッッ!」


 せっかく深呼吸して心を落ち着かせたのに。

 落ち着いたので部屋を見回す余裕が出来て「やっぱり女の子の部屋って可愛いものが多いんだな」とか「あのベッドで天野さんはいつも寝てるのか」とか「お、ニンテンドースイッチがある。天野さんもゲームやるのか」なんて、それなりにドキドキと冷静さを併せ持っていたというのに!

 

「ちゃんとブラジャーぐらいしまっとけぇぇぇぇぇぇ!!」


 部屋の片隅にある衣装タンスの棚の一部が半開きになっていて、中からブラジャーがひょっこり顔を出しているのを見つけてしまい、たまらず咽てしまった。


 いや、天野さんのブラなんて何度も見たことあるよ。それどころかそこに収められているご本尊だって「よ、まいど!」と挨拶をするほどの仲ですよ、ええ。

 だけどこういう状況下で見るブラジャーは明らかにいつもとは違っていて、まるで光を放つが如く輝いて見えて、ついつい近づいて手に取ってしまう。

 

 ……でかい。

 

 それも知ってる。けど改めてみると、ほんとデカい。これが中学一年生の持ちものだなんて反則だろ。俺が生徒指導の先生なら「学校にこんなけしからんものを持ってきちゃいかん」と没収するな。

 

 ガチャ。

 

 その時、部屋の扉がノックもなくいきなり開かれた。

 って当たり前か、だってここは天野さんの部屋で、ノックなんてする必要なんかは……。

 

「あらあら。三年生の先輩だってしずくちゃんから聞いてましたが、これまたお可愛らしい先輩ですわねぇ」

「…………」

「あ、ごめんなさいね、男の子に可愛いだなんて失礼なことを」

「…………」

「初めまして。しずくの母で羽音はねと申します」


 部屋に入ってきた天野さんのお母さん・羽音さんが、慌てて手にしていたものを後ろに隠す俺に向かって深々と頭を下げる。

 その仕草はとてもお淑やかで、静かなものだった。にもかかわらず。

 

 ぶるるんっ!

 

 俺の目の前で狂暴すぎるふたつの膨らみがバケツプリンの如くたっぷんたっぷんと揺れる。

 デカァァァァァいッ! 説明不要!!

 そりゃあ天野さんだって中一であの大きさだから、お母さんはさぞかし凄かろうと思っていたけれど、まさかこれほどとは。天野の血、恐るべし!!

 

「あ、こ、こちらこそ初めまして。中林俊輔って言います。天野さんとは同じ美術部で」

「はい。しずくちゃんから話は聞いてますよ。それよりも俊輔くん、ひとつ質問させてもらってもいい?」

「質問……ですか?」

「ええ。質問って言っても簡単なことよ」


 そう言って羽音さんは床のクッションに腰を下ろすと(またまたおっぱいがキングスライムみたいに揺れた)、俺にも座るようクッションを差し出しながら

 

「俊輔くん、もうしずくちゃんのおっぱいは揉んだ?」


 とんでもないことを尋ねてきた。

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