8. アークトゥルスの憂鬱
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高校時代の自分とは比較にならないほど、男女問わず知り合いが増えたが、それでも誰ともタイミングが合わない日だってあったりする。
たとえばそう、今日がそんな日だった。こうも手持ち無沙汰が極まると、世界から自分だけ切り取られたようだと、寂寞な瞑想に耽るような気分になる……みたいなほど、他人との繋がりに飢えているわけではないんだけど。
ともかく、暇ではあるのだ。アパートに帰っても動画サイトを覗くか、動画サイトでシコるかくらいしか選択肢がない。そういう時に、決まって足を運ぶ場所が俺にはあった。
いつもの『歓研』のある部室棟Aをスルーして、向かいにあるもう一つのB棟へ入る。最上階たる3階部分を武道場にしているB棟は、文化系の部活と有象無象のサークル全般を集めたA棟に対をなすように、体育会が軒を連ねている。
それを体現するかのように、エントランスには筋トレ器具がいくつか置かれていた。その周辺には、グランドホッケーのスティックやら、部屋干し中のラガーシャツやら……いわば汗と土と埃の饗宴である。これに加えて、ながしで無造作に転がされた発酵しかけのプロテインシェイカーが放つ存在感といったらもうない。
そんな中に立ち込めるどぎつい臭気を抜きにしても、俺はそんなにスポーツが好きなわけではない。ただ、このB棟にあるのは、なにも体育会だけではないのだ。足早に階段を昇り2階の最奥部へと至るとそこには、密林の中の集落のようにごく少数の文化部室が寄り集まっている。
俺の目的地たる、『天文部』と書かれた煤けたプレートが掲げられた部屋も、その内の1つにあった。
お昼休みにここが空いているのは分かり切っているので、そっとドアノブを回して中へ入る。
観研をはじめとしたA棟の部室と比べると、ずいぶん手狭な空間だ。壁際の本棚で所在なさげに身を寄せあっている本や科学誌、その横のラックの上にきっちりと並べられた天球儀や観測用具のケースなどからは、整然とした印象を受けるが、それでも狭いことには狭い。
だから、カーペットの上に正座して、小さなお弁当箱と向き合っている影山さんの姿は、特に捜すこともなく目に入った。
「…………?」
影山さんは眼鏡越しの目を訝しげに細め、俺の顔をひとしきり見ると、ようやく合点がいったかのように告げた。
「あ……そっか、部員でしたもんね」
それだけ言って、彼女は白米を口に運び嚥下する作業に戻った。
態度だけ見れば、暗に出ていけといっているようにも思えるが、影山さんにおいては、これが『こんにちは』みたいなものである。最初は俺も面食らったが、そのまま部室でだらだらしてても気まぐれに話しかけてみても終始そんな感じだったし、かといって特段追い出されたりはしなかったので、たぶんこれが素ってだけなんだろう。
「唯一の同期の顔くらい覚えてくれよ」
「……すみません。普段人が来ることなど、まず無いので。有り体に言えば、少し吃驚(びっくり)しました」
「…………もうちょい顔出した方がいいかな」
「いえ、部会にさえ来てくれれば。……それ以外のときは……ノックくらい、していただけると、助かります」
どうやら影山さんは、あれで最大限驚いていたらしい。結構な時間まじまじとこちらを注視していたような気もするが。前世は山道で轢殺されたタヌキかなにかなのか。
「気をつけとく」
律儀にも箸を止めて俺に忠告をしていた影山さんを尻目に、俺は定位置である窓辺のソファへと身を投げだした。ふにゃふにゃしたバーバパパみたいな形の、いわゆる『人をダメにするソファ』ってやつだ。俺が『観研』と並行してこの天文部に籍を置いている理由の半分くらいはこれだった。星のことはこれから好きになっていく予定だ。
事の始まりは、新歓の熱気もすっかり冷めた四月は中旬の昼下がり。大学構内にあるカフェテリアのすみっこで、『部員募集中!! 一緒に星を観ませんか!?』という看板のテンションとは裏腹に、ただ黙々と読書をしていた影山さんを見かけたことだった。
仮に、もし、万が一、いつかどこかで、デートで天体観測をしよう、となったとする。そんな折に、ドヤ顔でロマンチックな講釈を垂れることができたら、それはもうイカすだろう……というか、『今夜星を見に行こう』って誘うこと自体が相当のイケメンムーヴではないか。
そんな失笑するレベルに安直な妄想に駆り立てられ、気付けば彼女に話し掛けていた。興味がある旨を伝えると、『そうですか。それでは明後日、お昼休みに部室に来てください』とだけ言って店じまいを始めた影山さんの態度には少々面食らったが、入部届以外には特に手続きという手続きもなく、俺はあっさりと部員になった。
「コーヒー、飲みますか?」
少しばかりの時間をかけて弁当を空にした影山さんは、やおら立ち上がると、すぐ脇の床に置かれた電気ケトルを持ち上げる。
「あ、お願いします」
彼女は俺と同じく一年生であるらしい。時期外れとはいえ、まがりなりにも部員募集をかけていたわけだし、またそのひどく落ち着いた雰囲気から先輩だとばかり思っていたのだが。
元々この『天文部』は、先代の輩どもが自分のテリトリーが欲しいが為に、潰れかかっていた部活をのっとったものであり、主だった活動はコタツでカードゲームをやることだったらしい。それこそ、まともに星々へ思いを馳せていたのは新入生の影山さんだけだったのだという。ひどく歯切れが悪くそう語った彼女は、その後こう付け足した。
「正確に言えば、そもそも、人間が私ひとりしかいなかったのです」
というのも、影山さんが入部しようとした時には既に、先輩達が謎の失踪を遂げた後だったというのだ。真相は不明だが、奨学金をスロットで溶かして学費を払えなくなったとか、有閑マダムのヒモになったとか、整形してユーチューバーになったとか、よくわからない噂がまことしやかに囁かれている。そうして、廃部手続きもされず宙ぶらりんになったこの部屋のみが残った、と。
かくして影山さんは、新入部員にして新歓をする羽目になったのである。当然俺はこう訊いた。
「それ、入部した意味あるの?」
「……現金な話ですが、本格的な機材は、高価でして。部として存在するならば、と、補助金をアテにしていたことは否定できません」
大学側は、課外活動にかかる補助金として、毎年結構な額をプールしているのだが、そのお金の各部活動・サークルへの配分は学生の自治組織に一任されている。こういうとき、真面目に活動している部活動は、いくら人数が少なかろうと、有名無実な活動を行うちゃらけた大規模サークルよりもだいぶ立場が強いのだという。ここ数年の天文部は先に述べた通りの酷い有様だったらしいが、それでも予算と決算はきっちりマトモなものを提出しており、今年も補助金は充分な額を受給できるそうだ。
「部活動としての存続には、5名以上の部員が必要なので、未だ廃部の危機にあることは変わりませんが」
……だったらもうちょっと勧誘の方法は考えたほうがいいと思う。そこに飛び込んだ俺が言うのも変な話だが、テンションの高い看板と、ページを捲る音しか発さない影山さんの組み合わせは、はっきりいって異様だった。
「自分に愛想が無いのは自覚しています。ですから、せめて看板には愛想を振りまいてもらおうかと」
看板の端っこに書かれた、絵本にでてきそうなほどポップでキッチュな人面スターを一瞥し、俺は訊いた。
「これ、影山さんが描いたの?」
「ええ。…………何か?」
これに言い知れぬ不安を感じた俺は、学科の友達連中数人に頼み込んで、どうにか天文部に籍だけ置いてもらうことにしたのである。一週間くらい前のことだ。
「コーヒー、できましたよ。砂糖もミルクもないですけど」
「いや、大丈夫。ありがと」
布団を取り払われハダカになったコタツ机の上に、小綺麗なマグカップが置かれる。コタツといい、人をダメにするソファといい、先達たちはウトウトすればまぶたに星が浮かぶとでも思っていたのだろうか。
いや、かくいう俺も、空きコマなんかには時々ここを昼寝場所として活用させていただいているのだが。時間帯を誤ると、真上の武道場からドカドカと大砲のような足音が聞こえてくるのが難点といえば難点だけれど、不思議と居心地のいい空間だった。
「影山さんの淹れたコーヒーは美味いなぁ」
「インスタントですけど、それ」
「影山さんの注いだコーヒーは美味いなぁ」
「セクハラめいていて気持ち悪いです」
「……人を褒めるって難しいよなぁ」
「そうですか」
影山さんは常に無表情だ。少なくとも俺は、デフォルトの無表情と、『む?』って感じの無表情と、『はぁ』って呆れてる風な無表情しか見たことがない。
きっと彼女は、大きく感動しないだけで、感情はあるのだろう。というのが、数少ない触れ合いで俺が得た結論だ。
つまり、影山さんはある意味で寛大なのだ。そうそう動じることもないし、したがって何かに激しく嫌悪を抱くこともしない。こうして俺が軽口叩いたとしても、彼女はなんとも思っていないに違いない。
でも話を振ればちゃんと言葉を返してくれる。これを寛大と言わずしてなんと言おうか。
「話は変わりますが、天体観測をする気はありますか?」
ふと思い出したかのように、影山さんはそう言った。
「うしかい座流星群が6月末でピークを迎えるそうなので、そこに合わせようと思案していますが……」
「お! いいね、やろうよ」
流星群……単語は聞いたことある。流れ星が沢山見える、如何にも青春なヤツのことだろう。影山さんと二人で行って青春になるかどうかは未知数とはいえ、夜通し遠出するなんて、聞いただけでも胸が高鳴る。
「そうですか。では、予算を組んだらまた知らせます」
「え? お金いんの?」
「それはまぁ……旅費がかかりますから。星は、人工の光がない山間部に行った方が良く見えるので。レンタカーで奥多摩にでも行く予定です」
「俺、免許持ってないよ」
「私が運転しますので」
「……二人旅?」
「旅というほどでありませんが、ええ」
「おさわりは?」
「……する度胸があるとも思えませんが?」
なんとも頼り甲斐のある影山さんであった。しかしそうか、金がかかるのか。天体観測なんて、屋上で望遠鏡覗いて、いいタイミングでキスするだけだからタダだとばかり思っていた。
「6月末だったっけ?」
「そうですね。お金も少しはかかりますので、勿論、無理にとは言いません」
「バイト探してみるよ……。今んとこ、行くってことで」
「そうですか」
影山さんは、相変わらず顔色一つ変えずに返事をするばかりであった。
それでも、なんだかちょっと嬉しそうだなと見えてしまったのは、きっと俺の思い上がりであろう。
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