6. 下の名前は静香
♡
全く落ち着かない。
デート翌日、桃原との約束を果たすべく、おろしたてほやほやのオシャレ着に身を包んだ俺であったが、なんだか自分がとてつもなく悪いことをしているような気分に苛まれていた。
初めてオムツを外した時の感覚なんてものは覚えちゃいないが、おそらくそれに近しいそわそわ感がある。
改めて意識すると、大学構内には様々な服装の人間がいるものだ。特段コメントする必要もない感じのやつが大半ではあるが、チーム名が入った運動部のスウェットやら、明らかにダンスサークルだろうなっていうダボッとしたのやら、英字で埋め尽くされたTシャツのオタクやら……。
幸いなことに、1限は友人知人と誘い合わせて受けている講義ではなかったため、つつがなく終了した。赤の他人にジロジロと見られるようなことも今のところは無い。
十中八九、自意識過剰ってやつだ。俺のオシャレ意識が低すぎるだけで、世間一般的に俺の今の格好は、少なくとも大学生としてカテゴライズされるには相応しいものであるのだろう。
そう頭ではわかっていても、落ち着かないものは落ち着かないのだ。2限の空きコマになるや否や、俺は逃げるような足取りで部室へと向かった。
そして、部室棟まであと数十メートル、というところまで迫った時である。
「や」
ガラス張りの喫煙スペースで気怠げに紫煙を燻らせる、
「お疲れ様です」
「うん、お疲れ」
微塵も疲れていない大学生特有のこの挨拶もすっかり板についてきていた。高校以前の俺であったらバカにすること必至だが、もとより郷に従うのは不得意ではない。高校時代は、そういう不合理を虚仮にするようなコミュニティで生きていたというだけのことだ。あれは何回転も捻くれ続けたオタクの集まりであった。それはそれで楽しかったんだけども。
今目の前にいる島林先輩は、たぶんそういうタイプのオタクではない。というかそもそもオタクではないと思う。
喫煙所に立ち入った俺を煙たい匂いと共に出迎えてくれた島林先輩は、件の『観研』の先輩であった。俺と桃原がサークル見学に行った際に対応してくれたお方だ。
「部室?」
「あ、はい」
「どしたの? ……私も後から行くけど」
わざわざ寄り道をした俺に小首を傾げ訊く島林先輩は、俺にわざわざ寄り道をさせる程度には美人であった。
「暇なんです」
「そか。…………もう一本、いい?」
俺が頷くと、島林先輩は2本目のタバコに火を点け、長い息を吐いた。
喫煙する女性など、地元ではスケかおばちゃんくらいしか見たことなかったのだが、島林先輩はそれらとは何かが違う。なんというか、映画のワンシーン的なアーバン感に溢れている。カッコつけとかキツケとか依存とかではなく、何か高尚な趣味みたいに見えてくるから不思議だ。
本人はタバコを嗜む理由を、『お菓子は太るから』と語っていた。口唇欲求を隠そうともしないそのスタンスには、ある種清々しささえ感じられる。
「2限、さぼり?」
「いや、元から空きッス」
「ふーん。私は、サボり」
島林先輩は、にっと笑った、気がした。常日頃から眠そうに下がり気味な目尻とタバコを咥えたままの口元から、ただでさえ変化の少ない彼女の表情を推察するのは難しい。
「いい天気だから、さ」
「ケッコー自由ですよね、先輩」
俺の評に対し島林先輩は、すぅっと遠くの空を見ながら、小さな声で呟く。
「まあ、この時期サボると出席足りなくなるから、梅雨時に慌てて出始めるだけなんだけど」
クールでビューティな先輩なのに発言内容はダメな大学生そのものなのが彼女の魅力の一つである。親近感の度合いで言ったら、桃原よりも高いかもしれない。
それでも、憂いを帯びた眼で青空の向こうを見据える島林先輩はキマっていた。たぶん心中ではこれまで落としてきた単位に思いを馳せているであろうにも関わらず、だ。
やっぱ美人っていろいろ得だよなぁ、などしみじみ思っていると、先輩は俺にタバコを一本差し出してきた。
「いる?」
「……遠慮しときます」
「なんだ。すっごい見てたのに」
いやタバコじゃなくて貴女に見惚れいたんですよ、とは流石に言えない。
「あー、えーっと……おいしいんですか、それ?」
「……そんなに」
どう反応していいかわからずに口を噤む俺に、先輩はふっと微笑んだ。
「素直だなあ。私の言うことなんか、真に受けなくていいのに」
まだまだ付き合いのクソ短い美人な先輩の言うことを軽く流せるものなら流してみろと言いたい。俺はもっと仲良くなりたい。もっと言うとにゃんにゃんしたい。
我が心に住まう友人キャラが『お前、桃原ちゃんというコがいながら……!!』と憤っているが、あっちはあっちで確定ではないのだ。いくらファーストデートが無事に終わったといえ、ここから俺がトチる可能性はいくらでもあるし、なんなら最初から脈無しだっていう線も未だ捨てきれない。だから今の段階では、手広く、様々なルートにつながる道を模索すべきだ。確信を抱くには時間を使うし、博打をうつにも元手が要る。
……まあ、島林先輩が俺に興味を持ってくれるかどうかはまた別問題なのだが。
ぶっちゃけ、キレイな人と会話してるだけでもう俺は楽しいので、ワンチャンあろうがなかろうが無問題ではある。でもワンチャンあるにこしたことはない。複雑なようで、非常に単純な話だ。俺は調子にのっている。
「でも、素直なのはいいことだよ。ぜんぜん話聞かないよりは、百万倍くらい」
先輩は心底たるそうに、白く芳しいため息を吐いた。
「まだ絡まれてるんですか」
「あいつも、飽きないから」
あいつとは、今年になって急に歓研へ入ってきた3年生の男子のことである。先輩の名前というのは大抵、誰かがそう呼ぶところを聞いて覚えるものであるが、みんながみんな『あいつ』呼ばわりしているため、本名は知らない。よって以下、チャラ夫と呼称しよう。
尚、本文冒頭で桃原に絡んでいたのは"チャラ男"である。間違いのないよう注意されたい。
チャラ夫はフットサルだかテニスだか(正直忘れた)のチャラサーに所属していたらしいが、男女関係の闘争に敗れてサークルを追放されて、チャラい連中と若干距離を置く二流飲みサーたる我らが歓研に流れ着いた……というのが専らの噂である。
で、まあ、島林先輩に惚れているらしい。らしい、というか、誰が見ても明らかかつ露骨そして粘着質な絡みを常日頃所構わず仕掛けている。常在戦場の心意気だけは見倣っていきたいものだが、基本的に俺にとっては悪い見本であると言えよう。自戒せねば。
周りは周りで、まあ島林先輩がこんな
「うわ、モッテモテじゃないですか」
「それ、本気で言ってる?」
先輩は苦虫を2ダースくらい口に詰め込まれたような顔をした。
だる絡みするチャラ夫を島林先輩が半ギレで突っ返す。今や観研の日常風景と成りつつあるそれを、チャラ夫は夫婦漫才的な掛け合いとして認容されていると勘違いしているのだ、とは彼女の談である。
「なんで彼氏いないって素直に答えちゃったんだろ……」
「いや、いるって言ったとして、多分あんな感じじゃないっすか?」
桃原の件でやや調子に乗っている俺にはわかる。ワンチャンあるわこれ、ってなった男は、恋する乙女並に無敵だ。
チャラ夫先輩が一体どこにワンチャン感じちゃったのかは謎だが。
「……かもね」
先輩は諦めたようにタバコの火をもみ消した。
「部室、行こっか。あんなヤツのこと気にしてるだけしょーもないし」
そんなことを言う島林先輩であっが、部室の戸を開ける前に、チャラ夫の存否を確認するため俺だけ最初に中の様子を見るように命じてきた。
……むっちゃ気にしとるやんけ。
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