おばちゃんvsメタボ

第1話 人類の敵


 ——『おばちゃん』。


 それは人類の敵。少なくとも、おれはそう思っている。


 おばちゃん連中が集まるは、「世界の終焉 厄災の日」とおれは呼んでいた。どうかその日に遅番が当たりませんように! 

 しかし課長の嫌がらせなのか、運命の悪戯なのか。悪夢の金曜日に遅番が割り当てられることが多いのは事実である。


 もうね。ぶっちゃけ言っちゃうと、『おれにとったら苦痛以外のなにものでもなーい一日』なのだ。


「ちょっとごめんなさいね。空調をもう少し涼しくしてもらえないかしら?」


 化粧や宝石で飾り立てた、所謂マダムの声が事務所に響き渡った。彼女が事務所に入って来ると、化粧品のなんとも言えない甘ったるい匂いが鼻をつく。キラキラと光る白銀しろがね色や紺碧こんぺき色の宝石は、おれの視界を遮る眩しさだ。


 きやがった。こいつ。毎回、必ずと言っていいほど事務室にやってきて、なんだかんだといちゃもんをつけてくるんだ。きっと家では誰にも相手されていないに違いない。おれが夫だったらもう顔も見たくないくらいだ。家出しちゃうね。絶対にね。


 クレーマーか!? この野郎……。いや。野郎は男だ。このアマだ。


「わかりました——よ」


 このマダムが利用している練習室がどこかなんて聞かなくたって、もう知っている! このマダムは『梅の花コーラス』の団長だ。名前は知らねえけどな。いや。見ているが、覚える気がねえ。覚えてやるかよ! マダム橋本!


「あらまあ。今日はあなただけなの~?」


 マダム橋本は、ちらっとおれの名札に視線を寄越した。


 見られた! やべえ。——名前を覚えられたら最後だ。ハイエナのようにたかってくるに違いない。


 おれは「いえ、まあ」と言葉を濁しながら、名札を隠すように向きを変えた。それから急いで空調のところに向かう。

 涼しくって……。今日は比較的涼しい日だろうがよ。あんな厚塗りの化粧をしているから暑いんだよ。それに太っているからよ。かくいうおれだって暑いんだよ! 今日は……クソっ。

 文句を言いたくなる気持ちを抑え込んで、空調を調整した。すぐに立ち去って欲しい。さっさとマダム橋本のところに戻る。


「調整いたしましたよ。では——」

 

「ねえ。


 お、尾形くんだと! 「くん」付けかよ! そしておれの名前見られたーっ! 終わった。おれの目の前は世紀末の如く漆黒の闇に閉ざされる。名を知られるということは、名で縛られるということだ。昔なんかの漫画で読んだ。名前を知られたら終わりだ——。敵に全てを掌握されていまうのだ。

 ここまでひた隠しにしてきたはずだったのに。迂闊だった。名札なんて外しておけばよかった。

 すっかり意気消沈してしまったおれは、がっくりと肩を落としていたが、マダム橋本は事務所を出ていく素振りがない。まだおれにいちゃもんがあるのか。もういい。なんでも言ってくれ。

 おれは全てを受け入れよう。それが運命なのだ。そう思って脱力していると、マダム橋本は目を細めて、おれにそっと顔を寄せてきた。


「尾形くんってここの部署が長いわよねえ? 異動とかないの? 市役所に行ってしまうなんてことあるのかしら」


 マダム橋本はカウンター越しに肘をつく。もうすっかりおれと話し込む体勢だった。


「異動ですか? ——ええ。まあまれにあったりもするんですけど……おれは基本的にはないですかね。多分、橋本さんが嫌だっていってもここにいると思いますけど……」


「あらやだ! そうなの?」


「ええ」


 悟りの境地に至った勇者の心情は穏やかな草原の如くだ。おれは今それに気が付いた。なにを右往左往していたのだ。なにも冷静に心を無にして対応すれば、自分へのダメージは最小限になるはずなのだ。早く立ち去ってもらうよう愛想よく接客をしよう。そして立ち去ってくれた暁には、お菓子を食べるのだ。自分へのご褒美である。


 彼女を始末して味わう菓子はさぞ美味びみであるに違いない。そう妄想をしながら彼女の話を聞いた。しかし——彼女は突然に、おれの聴覚を疑うような爆弾発言をしたのだった。


「あなたは、


 ——ずっとここにいてくれるといいのにね!?


 どういう意味だよ、この野郎! いや、このマダム! おれだとなんでも頼みやすいってか!? 内心はものすごい暴風雨が吹き荒れているものの、それを見せまいと引き釣った笑みを作って見せてやった。


「そうですか? いやあ、おれも団長さんとこうしてお話ができるんだから、永久にここにいたいなー」


 半分厭味だ。わかってくれよ。さあ、嫌な思いをしたまえ——。おれはどや顔でマダム橋本を見たが、それは一瞬で凍り付いた。そして驚愕したのだった。


 なんと、マダム橋本は頬を赤らめて両手でそれを覆っていたのである。


「まあ、嬉しいこと言ってくれるのねえ」


 おれには正直、一体彼女の中でなにが起こったのか理解できなかった。頬に手を添えて恥ずかしそうに俯いている彼女は、恋する女子高校生みたいに愛らしい。いやいや。愛らしくなんてないぞ! そんなの絶対にない!


 首を横にブンブンと振って悪夢を振り払いたい。なのに、目の前の幻は消えてくれることはなかった。


 ——これは幻なんかじゃねー! 現実だ!


「あのね。ずっと『あなた』なんて呼んでいたけど、今日お名前がわかってよかったわ。尾形くん」


 ——ハートが見える……なぜだ。おれの名前の後にハートが見えるぞ……。


「尾形くんってね、うちの団では人気があるのよ。いい食べっぷりだし。その貫禄のいいお腹がチャーミングでしょう? コロコロっとしているのに、動きが機敏ですし。もう王子様みたいって。ねえ。もう。はしたないからそんなお話は止めましょうって私は止めるんですよ。でもねえ。みんながね……」


 ——はいい!? 


 初めてだ。こんな体型になってから初めて。マダムとは言え、女性に人気があるなんて初めての体験だった。

 

 妻とは中学校時代からの友人で、「お互いに相手もいないし仕方ないよねえ」なんて冗談で付き合い初めて、子どもが出来ちゃってからの結婚だったから。恋愛という恋愛の経験はない。


 こんな、え? 女性にモテていいの? おれ?

 

 なんだか逆に動揺してしまった。正直、狼狽えて情けないのはおれだ。


「今度、一緒にお茶でもどう? あ、もちろん。尾形くんが結婚しているのは知っているのよ。でも、おばさんたちを楽しませると思って……ね? そんな変な意味ではないの。どうかしら?」


「……」


 動揺を隠せない。目が左右に揺れているのは眩暈めまいのせいだ。自分のその反応を処理しきれなくて固まっていると、一人の女性が事務室に顔を出した。


 彼女は。そう――彼女もマダムの一人だ。『ロマネス・アンサンブル』の代表のマダム羽田……。


「あの、空調をもっと涼しくしてもらえません?」


 マダム橋本同様に厚化粧の金ぴかマダム。彼女はマダム橋本と対照的に痩せている。魔女みたいな女性だった。


「えっと、あ、はい!」


 おれは窮地から脱しようと、すぐに空調のところに駆けだした。ラウンドに出ている吉田が早く帰ってきてくれることだけを祈る。神よ。本当にいるなら、ここにいる可哀そうな子羊のおれを助けろ。


 ——早くしてくれ! おばちゃん二人の相手は無理だって!



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