第8話 台風一過



 あおは大きな声を出したおかげでむせりそうになり、慌てて口元を押さえた。


「な、なに? どういうこと?」


「だから。そのままの意味だよ」


 床に指を着いて頭を下げていた関口は申し訳がなさそうな顔をして頭を上げた。


「僕は無収入になるんだよね」


「嘘でしょう——?」


「東京のプロオケからの収入と、ヴァイオリン協会からの収入で生活しているんだよ。あの人たちの世話にはなりたくないからね。まあ、どうしてもこの家の税金関係はあの人たちが肩代わりしてくれているんだけどね。それでも収入なんて微々たるもので……公務員だろう? 給料いいんでしょう?」


「い、いいわけないでしょう? まだ新人だよ? あのねえ。言っておきますけど、東京の企業の初任給よりもずーっと安いんですからね!」


 ——養うってどういうこと? 意味わからないし。でも……。


 プライドの高い関口が頭を下げるなんてよっぽどのことだ。多分、両親に頭を下げることができずに仕方なく蒼にそうしているのだろうと理解した。


「でも。でもどうするの? だってアパート維持して、関口の生活の面倒までみられないよ」


 ほとほと困って切り出すと、関口は言った。


「ここに越してくればいい。家賃はただだし。光熱費を半分こして……それくらいは貯蓄から回す。ただ、食費とか生活費はなんとか多めに出してもらって」


「ええ? 一緒に暮らすってこと?」


「そのほうが効率的だ。コンクール終わって仕事するようになったらちゃんと支払う。ルームシェアってやつだ。どう? 悪い話じゃないでしょう?」


 確かに。公務員の安月給でアパートを借りての一人暮らしは余裕があるとは言い切れない。ここにいられるなら、少しは生活に余裕が出るかも知れないという誘惑が蒼を揺さぶった。


「で、でも。引っ越しは」


「僕も手伝う。そんなに荷物ないんだろ? 二人でやればなんとかなるし。もともとは僕の問題だから。それに蒼、なんでもできることはしてくれるんだろう?」


 ——そんな! なんとかなるしって!



 こんなところで、つけいられるなんて思ってもみなかった。


「ねえ! 本当にお金ない訳?」


 蒼が言い終わらない内に関口は通帳を出した。


「ざ、残金一万って!! ねぇ! さすがのおれも呆れて物も言えないよ! あのねぇ、北海道のお取り寄せとかしている場合じゃないですっ」


 蒼の言い分はごもっともとばかりに、関口は閉口した。

 しかしよく考えてみれば、音楽で生計を立てるのは難しいのだろう。とくに関口の場合はまだまだ駆け出しだ。ヴァイオリン協会の収入だって安いだろうし、プロオケの給料だってそれだけで食べていくのには厳しいのかも知れない。

 なのにそれすら入ってこないとなると……。

 瞬時に彼の置かれている状況を把握すると、彼の申し出はごもっともであると理解した。


 沈黙してしまった蒼を見て、様子を伺っていた関口はこれ見よがしに声を上げた。


「言いたいことはそれだけ? 全部吐き出した? よし! じゃあ、さっそく部屋を片づけよう」


「あ、あのねえ。関口」


「いつくる? 今週末?」


「だから——」


 もう反論する余地もない。蒼は黙り込んで朝食をかき込んだ。



***



 結局、関口に送ってもらい蒼が職場に行くと、自宅の鍵は職員玄関のすぐそばに落ちていたようだ。蒼よりも先に出勤してきていた星野が拾ってくれていたのだ。


 いつも精気もなく、仕事に対してもやる気が見られない星野なのに、台風の後、職場の様子が気になったようでいつもよりも早く出勤してきたようだった。そのおかげで、関口と一緒に鍵を探そうとしていた蒼は彼と鉢合わせになった。


「なんだよ。お前ら。もうそんな関係な訳?」


 おどけたようにからかってくる星野に「違います」とだけ言って、関口は帰っていった。蒼にはどういう意味なのかわからない会話だった。


「昨日、あの雨の中。鍵を失くしたんですよ。それで家に入れなくなって関口の家に泊めてもらっただけです」


「ふう~ん」


「ふう~んってなんですか。それ」


「別に」


 星野はにやにやとしながら蒼に拾った鍵を手渡す。それからふと動きを止めて蒼の顔を覗き込んだ。


「お前、大丈夫?」


「え?」


「なんだか——風邪?」


 じっと息を潜めているというのに、星野は気が付くのだな。


「すみません。喘息持ちなんですよ。昨日濡れたから、少し調子が悪いみたいです」


「休めばいいじゃん。遅番でもないんだし」


「大丈夫です」


「ならいいけど。無理すんなよ。バカ蒼」


「その『バカ』って余計です」


 蒼は星野よりも先に中に入り込むと、朝の準備を始める。寝不足のせいばかりではない。確実に喘息が悪さをしていうのは自分が一番理解している。


 ——またあれ……嫌だな。


 そんなことを考えながらポットを準備していると、星野は中庭で鳥小屋のチェックをしているようだった。


「心配なのは鳥小屋か」


 星野という男は根が優しい。本当にいい人だと思うと、自然に笑みが洩れた。







— 第六曲 了 —

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