第3話 嵐の夜に
その日。ペアで遅番をしていた氏家は孫の誕生日だからと、少し早めに帰っていった。水野谷には早退すると話をしていたから、それは仕方のないことだと
九時前だというのに、利用者は全員帰宅。蒼は日誌を書き終えて帰り支度を済ませた。事務所の入り口には関口が立っていた。約束通り送ってくれるようだ。
「ねえ、こんな天気だし。いいよ。先に帰って」
「だから。そういうのって逆に失礼でしょ。ここまで待ったのに今更ないよね」
「そ、それはそうだけど」
どうしても遠慮がちになるのは蒼の悪い癖だ。関口がむっつりとしてそこにいるので、蒼は慌ててしまう。水野谷のデスクに日誌を提出し、それから消灯をする。セキュリティをオンにして、二人は職員玄関から外に出た。
外は真っ暗だった。
「風強いのって怖い」
「え?」
蒼はざわざわとしてた胸元を思わず握りしめた。昔から苦手だ。顔に風が当たると、なぜかざわざわとした感覚に陥って、体がむずむずとするのだ。
「猫みたい」
「へ?」
関口は笑う。
「猫もさ。顔に息吹きかけると目をつむってブルブルってするじゃない。あれみたい」
「ち、違うし」
文句を言いながら、職員玄関のロックをかける。雨がひどい。ハンカチを取り出そうとポケットに手を突っ込んでからそれを引っ張り出す。
チャリン——。
「え?」
金属の落ちる音。
「なにか落ちたけど?」
「……!」
ポケットをまさぐってから、蒼はがばっとしゃがみこんだ。
「なに?」
「か、鍵」
「え?」
「家の鍵! 今落ちたのは家の鍵!」
関口は呆れてため息を吐いた。
「なんでそこでポケットいじるのかな~」
「だって、ハンカチ取りたくて……鍵!?」
職員玄関はくぼんでいるとはいうものの、横風に乗って、雨が吹き付けてくる場所だ。傘などなんの役にも立たない。二人は雨に打たれてずぶ濡れだ。
「鍵——、どうしよう。家に帰れないじゃない!」
「あのさ。悪いけど、楽器濡らしたくないし。帰るぞ」
「だって、じゃあ」
「明日の朝にしなよ。こんな暗かったら見つかるものも見つからないし。どうせこの場所を通るのは職員だけでしょう? 誰も持って行かないって」
「でも」
関口は蒼には付き合っていられないとばかりに、彼の腕を掴まえると引っ張り上げて歩き出した。確かに関口を巻き込むわけにはいかないのだ。彼の楽器は大事だ。自分のこんなドジなせいで。
「先帰っていていいよ。おれ、探してから帰るから」
「だ、か、ら。そういうのはやめなよ。いいから。僕がなんとかする」
「ちょ、関口!」
結局は強引に押し切られて、暴風雨の中、蒼は関口に引っ張られて行った。
***
関口に連れられてやってきたのは、駅西口に近い閑静な住宅街だった。梅沢駅はどちらかと言えば東口が賑わっている。西口はコンベンションホールが立地しているものの、東口に比べると静かな雰囲気がある。
平屋の一戸建て。外観は古そうだった。カーポートの下に車を駐車すると、関口に引っ張られるように玄関から中に入った。
扉を開け閉めすると、はめられているガラス戸がガチャガチャと音を立てて懐かしい気持ちになった。
「今、タオルを持ってくるから」
彼はそう言うと、まっすぐに伸びている廊下を歩いていく。そして、途中で左に姿を消した。彼が姿を消すと、外の風の音だけが耳をついた。なんとも古い建物だった。
玄関の上がり
その上の壁には小さい日本画が飾られていた。淡い色彩のそれは、梅沢から見渡す山のようにも見えた。
見えている範囲だけで推測すると、まっすぐに伸びている廊下を中心に、部屋は左右にあるようだ。右手は南向きだから居間などの居室なのだろう。左手、玄関すぐの小さい扉はトイレだと見た。ということは、関口が消えた場所は浴室かなにかだろうか。台所などの水回りは北側にあるのかも知れない。
そんなことを想像していると、関口がタオルを抱えて姿を現した。
「早く拭くといい。風邪をひく」
「ありがとう」
軽く足元を拭き、それから濡れた頭を拭く。その間に関口は再び中に戻っていく。
「早く上がって」
「あ、うん」
結局。鍵は見付かないし、探しているような状況でもないということで、今晩は彼の家に厄介になることになったのだ。
『どうせ一人でいる。誰も気を遣うような場所ではないし。部屋もいくつかあるから気兼ねしなくていい』
そう言われてしまうと従うしかない。なにせ、どんなに突っぱねてもアパートの自宅には入れないのだから。合いカギを作っておかなくてはと思っていたものの、どうせ一人暮らしだ。なんとかなるという甘い考えが祟った。
もし今晩、関口と約束をしていなかったら自分はどうなっていたのだろうか。あの嵐の中、一人で地面に這いつくばって鍵を探し続けていたのだろう。
蒼が戸惑っておろおろとしている間に、関口は風呂の準備をし、それからお湯を沸かしているようだった。
彼に案内されて入った部屋は玄関から見て右手の二つ目の部屋だ。そこは居間だ。中心に円卓のちゃぶ台が置かれていた。
障子戸の向こう側には縁側があるようだ。八畳の和室は心が落ち着いた。どこに座ったらよいものかと悩んでいると、ポットを持ってきた関口に「そこ」と指示された。
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