第8話 先生


 今日は水曜日。あおは市民オーケストラの練習日を避けての遅番だ。


「ラウンド行ってくるか」


「おれ、行きますよ」


「いいって。関口に会っちゃうと気まずいだろー。あいつヴァイオリン協会の講師も引き受けた、なんて噂に聞いたからな。今日はヴァイオリン協会の日だろ? 事務所で大人しくしてろって」


 遅番仲間の星野は懐中電灯を手に事務所を出て行く。


「課長に言って水曜日も外してもらったほうがいいんじゃねーかな……」


そんな独り言を言いながら。一人取り残されると、なんだか不安になった。


 そんな中、奥の第五練習室の利用者から内線が入った。ピアノの蓋が施錠されており開かないと言う。星野は戻る気配がないが、ピアノが使えないのをそのままにもしておけない。


 蒼はカウンターに「不在。もう少々お待ちください」と書かれた札を出してから事務室を出た。


 湾曲した廊下は橙色だいだいいろの淡い光で心落ち着く。中庭を眺めながら歩みを進めると少し開けた場所にたどり着いた。

 第五練習室はその先。水飲み場を左手に折れた場所だからだ。


 いつもは誰もいないその場所に今日は人がいた。関口けいと小学生くらいの男の子だった。


「こんな簡単な曲、一回で弾けちゃうし」


 トレーナーにジーンズのやんちゃそうな男の子は頬を膨らませて関口に悪態を吐いた。しかし、彼は苦笑いをしている。


直樹なおきの腕じゃ、そうなるかな?」


「でしょ? ねえ、先生。もっと難しい曲の課題ないの?」


「難しい曲ね」


 ——お前の演奏は空っぽだ……。


 星野から聞いた関口の話を思い出した。年端かもない男の子が突きつけられた現実は残酷だったことだろう。関口蛍はこの男の子みたいに自分の力を信じて自信に満ち満ちていたに違いないのだろう。

 嫌な奴なのに。なぜかそんなことを考えてしまう自分はお人好しだと思った。


「直樹は、この曲を聴いた時どう思った?」


「え? どうって……簡単っていう感じ?」


「いや、そうじゃなくて……曲の持つ意味だよ。この曲は何を歌っているのかな?」


 ——何を歌っているのか?


 蒼は息を呑んだ。関口に問われた直樹はキョトンとした顔をしてから腕組みをした。


「えー。そんなの考えたことないよー」


「じゃあ考えてみてよ」


「えー」


 蒼には二人がどんな曲の話をしているのかさっぱりわからない。だが、関口の促し方はスムーズだと感心した。


「ねえ、この曲は明るい? 暗い?」


「えー。なんか短調でしょ。でも明るく感じたり暗く感じたりするよね」


「だよね。それってなんでだろ?」


「それはいい時もあれば悪い時もあるみたいな? いつも同じじゃないってことでしょ。おれの今日みたいじゃん! 朝は寝坊して最悪。でも給食は大好きなソフト麺でラッキー! なのに放課後はサッカーでボロ負け。これじゃん! まさにこれ」


 直樹は言葉に合わせて表情を変える。それをみて関口は笑みを浮かべた。


 ——ああ。あんな顔で笑えるんだ。


「それそれ。楽しい時は嬉しくなって、最悪な気分の時は落胆して。この曲は浮き沈みが激しいよね」


「確かにねー。これ作った人もおれみたいだったんじゃない?」


 関口は頷く。


「これを書いた作曲家はね、この時期恋をしていたらしいよ」


「恋って、うっそ。好きな子?」


「だね。直樹はいないの?」


 直樹は顔を赤くした。


「ば、ばかじゃねーの! 女なんてうるせーだけだし」


「おーおー。赤くなってるけど?」


 関口に突かれて直樹はますます赤くなる。


 ——あの子、十分恋してるじゃない。


 なんだか微笑ましい光景に思わず笑いそうになって口元を押さえた。蒼のいる場所は死角だ。二人からは見えないだろう。


「まあ、恋しているかしていないかはさておいて——それ聞いてどう思った?」


「まあ、確かに。簡単かもしれないけどさ。もう少し弾いてみたくなったよ」


「でしょう?」


 ——うまく乗った!


「さて。じゃあ来週までに仕上げようか。なんでもいいよ。今日の一日を想像してもいいけど、まあ、恋の方がもっともらしくていいんだけどね」


「先生! もう。——あ! クソババア迎えにくるんだ。じゃあね! 先生。また来週!」


 楽器ケースを背負って走ってきた直樹と鉢合わせになるが、彼は蒼のことなど気にしない様子でバタバタと走り去った。


 関口は梅沢ヴァイオリン協会の講師も務めていると言っていた。ヴァイオリンを習うには、大手の音楽教室や、個人の音楽教室で習うのが通例だが、梅沢は田舎でそう講師の担い手がいないのが現状だ。


 そこで、ヴァイオリン協会では星音堂の練習室を使って、講師をあちこちから呼び寄せて若手の育成に力を入れていると星野が話していたのを思い出す。自分の教室を持っている講師なども出張してやってくるし、こうして関口のように県外からやってくる講師もいるというわけだ。


 それが水曜日だと言っていた。そんなことを考えてからはっとしても遅い。片付けを済ませて正面玄関へ向かおうとしていた関口と鉢合わせてしまったのだ。

 立ち聞きしていたみたいでバツが悪い。慌てふためいたせいで挙動不審すぎる。


「あ」


 ——なんて切り出したらいいのだ!?


 おろおろと狼狽えていると、ふと彼が口を開いた。


「なんです。悪趣味ですね」


「ち、違うし。おれは奥の練習室に用事があるんです!」


「じゃあ、さっさと通り過ぎたらいいじゃないですか」


「だ、だって。なんでここで話するわけ? 練習室でやりなさいよ」


 関口のせいにしたって仕方がないが、立ち聞きをしていたことへの罪悪感を隠すように蒼は言い訳まがいに言い放った。


 一人で右往左往している蒼は馬鹿みたいだ。関口はそれを冷ややかに見ていた。先ほどまでの笑顔は嘘なのだろうか?


「さっさと帰ってくださいよ」


「おい」


「なに!?」


 立ち去ろうとして振り返ると、関口が呆れた顔をして蒼の肩を指さした。


「シール、ついてますよ」


「へ!?」


 はったとして右肩に視線をやると、先ほどまでいじっていたタグが一枚くっついていた。

 バタバタと慌ててタグを外す様を見ていた関口は「ぷっ」と吹き出した。なんだか馬鹿にされているみたいでもう言葉も出ない。言い訳も何もない。ただただ顔を真っ赤にして口をパクパクするだけだった。


「も、もう! ばかにして!」


「せっかく教えてあげたのに」


「結構です!」


 蒼はむんむんとした気持ちで廊下の奥を目指す。


 きっと嫌な奴じゃない。きっと嫌な奴じゃない……。

 いつもは怒りたい気持ちばかりなのに、なぜか怒る気にもなれないのは、彼の違う面を見たせいなのだろうか?


「からっぽか」


 そんなことを呟くと、第五練習室から中年の女性が顔を出した。


「遅いわよ!」


「は、はい! 申し訳ありませんでした」


 蒼は慌てて第五練習室に駆け込んだ。



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