第9話 父
木曜日。市民オーケストラの練習日。
みんなの配慮であるということは理解していても、さっさと帰らされると、なんとなく自分は必要とされていないのではないかと思ってしまい、心がざわざわとしていた。
リュックを背負い職員玄関から外に出る。そして自転車置き場に向かおうとすると、見知った人影に体が強張った。
「やあ」
夏間近の夕暮れは燃えるような夕日を作り出す。茜色に染まった空に反射して、男の顔も真っ赤に見えた。
彼は地味な恰好だった。長身で痩躯。白髪の多い髪を短く切りそろえている。気品のある銀縁の眼鏡は地味な割に、そう悪い生活をしているようには見えない。むしろ、高水準な生活環境にいることは容易に想像できるだろう。
蒼は警戒するように体を強張らせたまま男を見つめた。
「……お久しぶりです」
「すまないね。職場まで押しかけるなんて。どうかしているとは思ったんだけどね。
蒼は高鳴る鼓動を抑えきれない。まるで心臓が耳元にあるかの如く大きい拍動に支配されて、男の声がよく聞き取れないのだ。
いや、聞き取れないのではない。聞きたくないだ。
「……すみません。あの。仕事が忙しくて」
「そうだと思ったよ。でも、今日はもう終わりでしょう? どうだろうか。久しぶりに家に帰ってこない?」
恐れていた誘いに、膝がガクガクと震えた。
「あ。あの。それは——」
答えに窮していると、ふと蒼を呼ぶ声が響いた。
「蒼! 悪いな。遅くなって」
男は驚いたように顔を上げる。しかし、もっと驚いたのは蒼のほうだ。
視線を巡らせて声の主を探す。そこにいたのは——関口だった。
彼はヴァイオリンケースを肩に背負い、そのまま蒼の元にやってきた。
「すまない。遅くなって」
「え……えっと。あの」
戸惑っている蒼を
「すみませんね。蒼は僕との約束があるのです。急用じゃないならご遠慮していただけませんか」
丁寧だが有無を言わせぬ物言いに、初老の男は苦笑いをした。
「いや。私の用事は大したことではなくてね」
彼はそれから蒼を見つめた。
「お友達が出来たんだね。よかった。安心したよ。家にはいつでも帰ってきていいんだらかね。
彼はそう言うと軽く手を振ってから姿を消した。
男の姿が見えなくなると、堪えていた膝が一気に折れて、蒼は地面に座り込んでしまった。関口は慌てて彼に手をかけた。
「大丈夫か?」
「あ、あの……」
——助けてくれた? 関口が?
「迷惑だったらすまない。どうやら困っているように見えたもので。——あれはなんだ? 新手のナンパか」
「ち……」
「え?」
「父です」
蒼の回答に関口は口をパクパクさせて顔を赤くした。
「そ、それでは逆に失礼だったのではないか? 僕としたことが……」
「いいんです。いいえ。助かりました。父とは話をしたくなかったんです。それに——本当の父ではないので他人です」
関口に手を借りて、側のベンチに腰を下ろした。あまりに気が動転していたのだ。彼の腕を掴んでいたことにはったとし、それからぱっと手を離した。
「すみません、でした……」
「いえ。こちらこそ。事情も知らないのに口出しをして。——やだな。そういう性格じゃないんですけどね」
蒼は深呼吸を何度かし、それから改めて関口に視線をやった。「本当の父ではない」と言ってしまったのだ。このままというわけにもいかないような気まずい雰囲気に諦めて口を開いた。
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