第13話 通い夫
一度も足を踏み入れたことのない場所だが、緊張で足元が浮ついていた。ふわふわと雲の上を歩いているような感覚を覚えながら、関口に背中を押されて歩き出した。
今日は土曜日で診療は行っているようだ。正面玄関の自動ドアが開いたり閉まったりして、出入りしている人たちが見受けられた。
中に入ってからスリッパに履き替えて、中の自動ドアを潜った。目の前にある受付の周囲には土曜日と言っても、所せましと人が座っていた。
さすがストレス社会だ。若い人から高齢者まで様々な人たちがそこにはいたのだ。
振り返るとそこには義父である熊谷栄一郎が立っていたのだ。
「蒼じゃない。え? 本当に? 夢じゃないよね?」
彼は困惑したような、それでも笑顔で蒼を見下ろしていた。
まさかここで最初から出くわすとは思っていなかったおかげで一気に気が動転した。
「あ、あの」
「嬉しいな。
「あ、あの。っていうか。えっと……」
大した返答もしていないのに、彼は蒼の腕を掴まえると、すたすたと慣れた様子で待合室を横切った。
目の前がぐるぐると歪んで思考が混乱している蒼はなされるがままだった。
待合室を過ぎ、左に折れたところの突き当りの階段から二階に上がる。
「こんな厳重な場所にいる必要はないくらい軽快しているんだけどね。なにせ古い病院だ。全ての病棟が閉鎖病棟なもので。面会するのにもひと手間が必要なんだよね」
軽い口調で説明を加える栄一郎だが、蒼に取ったらそれはとてつもなく重く感じられた。
——閉鎖病棟……。
慣れた様子の栄一郎に心に浮かんだ疑問を投げかけてみる。
「あの。何度もここに?」
「入院当初、海は自責の念が強くてね。自殺
階段を登りながら栄一郎は説明を続けた。
「数年は僕も面会禁止だった。やっと許可された後も蒼はまだ面会させられない状態が続いたものだから、ごめんね。君には黙って会いにきていたんだ。
落ち着いたら連れて行こうってずっと思っていたんだけど……。海のことに触れたがらなかったからね。僕は、どこか臆病だったのかも知れない。君を誘うことがなかなかできなかった」
それは多分。蒼が放つ「拒否」のオーラがあったからではないか? ずっと海には嫌われていると思っていたから。いや、いまでもそんな気持ちがある。触れられたくなかった。それが事実だ。
「恥ずかしい話だろ? 妻恋しさに毎週土曜日の午後はこうしてここに通っているんだから」
正直、栄一郎に対する気持ちは複雑だ。母が大変だった時、彼がどのくら彼女をかばってくれていたのか?
その後、自分を実子同様に可愛がってくれた恩はあるが、やはり自分たち親子の人生が狂ったのは、彼との出会いだったのではないかという思いが拭い去れないのだ。
だから彼を目の当たりにしてしまうと心が落ち着かなくなって拒否反応を示すことが多々あった。
子供心に週末も家にいない父は、仕事ばかりに夢中なのかと思っていたのだ。そう全て誤解。自分が母親から逃げ出している間も、彼は彼女に向き合おうと努力していたというのか――。
栄一郎の笑顔は温かい。なんだか自分が惨めに見えた。一人で抱え込んで。もっと早くに彼と話をすればよかったのだ。
「最初はね。もう怒られて怒られてね。僕の顔見ると『私たちの人生を返せ』って何時間もなじられて。ドクターストップで面会終了なんて毎回の事でね。でもそれは僕じゃないとできない役だ。この責任は全て僕にあるから。しつこく通っていたらね、彼女の方が根負けしてくれたみたい」
二階に到着すると、防火シャッターのように強固な金属製の扉が目の前に立ち塞がる。扉の隣に据えられているインターフォンを押すと、機械を通して女性の声が響いた。
「熊谷海の家族です。面会できますでしょうか」
ジリジリとしたスピーカーの機械音の後、『どうぞ』という声とともに、カチリと開錠される音が小さく聞こえた。それを確認して、栄一郎はノブを回して扉を開けた。 出入口の施錠は看護師が遠隔操作をしているらしい。
中は薄暗い廊下だ。廊下の両脇に病室が並んでおり、廊下自体に光が差し込まないのだ。まだ昼下がりの時間だというのに、薄暗い廊下には
彼は慣れた様子でその廊下を進む。そして、途中にある看護師の詰所に顔を出した。
「熊谷です」
彼の声に初老の女性看護師が顔を出した。真っ白な白衣はどこの病院でも同じだと蒼は思った。病院で育ったおかげで彼女たちの姿は目新しいものではない。しかし、実家の熊谷医院と違っているのは、彼女たちの腰に鍵が括り付けてあることだ。
——全て施錠されているのだろうか。こんな囲われている世界で母さんは過ごしてきたのか。知らなかった。
自分せいで辛い思いをさせた。そう思うと心が痛む。胸の辺りのシャツをぎゅっと握りしめていると、看護師の声が耳に入ってきた。
「退院の件、考えてくださいましたか?」
「ええ。もちろんです。我々はいつでも受け入れる準備はできているのです」
——退院だって?
蒼は、はっとして栄一郎を見つめる。蒼の視線に気が付いた彼はにこっと優しく笑みを見せた。
「ただ、海さんが首を縦に振らないんですよね。やっぱり息子さんに会えていないから自信が持てないんじゃないかしら——」
看護師の言葉に栄一郎は困った顔をした。
「もうすっかりここの生活が馴染んでいますからね。説得してみます。今日は強力な助っ人がいますから」
そこで看護師は初めて蒼を認識したようだ。
「あら——息子さん、ですか」
「似ているでしょう?」
「ええ、一目でわかりますね。あらやだ」
彼女は嬉しそうに蒼を見た。
——似ている? 自分は母親に似ているのか?
もう何年も彼女とは会っていない。顔も知らない。栄一郎が写真を見せてくれると言っても、それは全部拒否した。見てしまったら、会いたくなるに決まっているからだ。
だけどそれも今日で終わりだ。実際に彼女に再会するのだから。
「いつものところ?」
「そうですよ。いつものところです」
看護師に礼を述べて栄一郎は歩き出した。蒼もその後を着いていった。
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