第4話 お日様だって翳るもの



 自分の席に座り俯いているあおをチラチラと見ながら氏家うじいえは日誌をまとめて本日分の業務を完結させた。それから蒼に声をかけた。


「蒼、お前。どうした? なにか嫌なこと言われたのか? あいつに」


いつもは朗らかで、お日様みたいな笑顔が取り柄の蒼だが、それはかげる。


「おれは……」


「え?」


「おれはクズ職員だと言われました」


 ——あいつ!


 氏家は内心、関口を呪う。悪い奴ではないのだが、ともかく自分本位の我儘な男だと理解していた。それがどうだ。ドイツから帰ってきた途端、こんな騒ぎを起こすだなんて。正直、驚きを隠せないでいた。


 ——なんで蒼に突っかかるんだよ。全く。吉田の時も確かに悪態吐いたりしていたが、ここまでではなかった。


「お前のことはおれたちがよく理解している。関口の言葉になんて耳を貸すなよ」


「でもっ」


 蒼は涙を浮かべていた。目元を朱色に上気させ、興奮冷めやらない口調で吐き出す。


「な、なんであの人に、そんなことを言われなくちゃいけないんですか? おれだって音楽を好きになろうとしているんですよ。なのに、音楽がわからないだなんてって鼻で笑われました」


「蒼……」


「おれは星野さんみたいな知識はありません。音楽のことはまだまだ勉強中です。人事課の指示でここに配属されているから、自分にできることを全うしたい。それだけの思いでやってきたんです! それなのに。ダメ職員って! 氏家さん、おれはダメですか? ここに座る資格はありませんか?」


 これはずっと蒼の心の中で燻っていた想いなのかもしれないと氏家は気がついた。この部署には新人の同期はいない。みんな仕事慣れしている先輩ばかりだ。異動の少ないこの環境は、古参職員たちを職人化するものだ。


 星野の仕事ぶりを目の当たりにすると、できない自分は惨めに思えるのだろう。お菓子ばかり食べている尾形ですら、ポスター作成やチラシ作成などは朝飯前だ。


 そんな環境で四苦八苦してきた蒼にとったら関口のダメ出しは現実を突きつけられたのかもしれない。


「蒼」


 呼吸も乱れ、肩で息を吐く蒼の隣の席に座った。


「お前はおれたち期待の若手新人だ。おれたちは誰もお前をそう評価していない」


「で、でもっ!」


 蒼の瞳からは沢山の涙がこぼれ落ちる。


 ——辛いのだな。


「関口は確かに、昔から出入りしていて仲間みたいなもんだが、あいつにおれたちの業務のことは理解できていない。おれはお前の意見に賛成だ。おれたちは星音堂せいおんどう職員である前に市役所職員だ。音楽のなんたるかを知らなくても仕事はこなす。それがプロだからだ。関口の思いはあいつの願いだ。音楽ホールを運営する奴みんなが音楽通とは限らないのにな」


 声色を落とし、静かに話をしていくと少しずつ蒼の興奮が収まる様子がよくわかった。


「すまないな。多分、あいつも苦しいところなんだよ」


「そんなこと、おれには関係ありません。申し訳ありません。みなさんにとったら大事な仲間かもしれないけど……おれは初対面で。受け入れられません」


 いつもの蒼からは想像もできない反応に氏家は戸惑いつつ「いいじゃないか」と答えた。


「おれたちが仲良くしているからと言ってお前が無理することはないよ。お前はお前のペースで仕事をすればいいんだ」


「氏家さん。すみませんでした。おれ、失格です。利用者さんと喧嘩しちゃうなんて」


「蒼。お前の気持ちはわかった。だが、この件は課長に報告しないといけない。なにせ野次馬が多過ぎた。相手は関口だから苦情を入れるということはないと思うが」


「いいんです。報告してください。その方がいいんです。これはおれの不手際です。少し挑発されたからってなにも喧嘩に乗らなくてもよかった。すみませんでした」


 すっかり平常心を取り戻したのか。蒼は目元をゴシゴシとハンカチで擦り、両手で自分の頬をバチバチと何度か叩いた。


「世話が焼けるぜ。励ましたいけど、!」


 氏家の親父ギャグに、蒼は「ふっ」と小さく笑った。


「おいおい。面白いときは盛大に笑っていいんだぜ?」


「だって……そんなに笑えませんよ」


「失笑ってやつかよ! ナイスじゃ


「わかりました。ありがとうございました。少し気持ちがおさまりました」


 蒼はふふっと笑みを見せる。


 ——こいつはただ明るいだけじゃないんだ。


 熊谷蒼という男は、。氏家はそう感じたが、それはあくまで感覚的なものだから、突っ込んで聞くことでもなかった。


「帰ろうぜ。疲れただろう?」


「はい。遅番業務、結局氏家さんにお任せしてしまって、すみませんでした」


「じゃあ明日の昼飯の時に豚汁おごれよな」


「わかりました」


 氏家は蒼を促して事務室も消灯した。


 なんだか一波乱ありそうで嫌な気持ちになっていた。



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