第3話 心の渇き


 菱沼ひしぬまは今年七十歳になる古参音楽家だ。もともとは高校教諭で現役時代から合唱を指導していた男だ。星野は彼と話をするのが好きだった。彼の音楽論が星野の感性にマッチしていたからだ。


「黒川、今日はこの話は終わりだ。星野くんたちに迷惑だろう。日を改めよう」


「先生! もうこの件は何度もお話しておりますよ。はぐらかさないでくださいよ」


 若い黒川に推され気味な菱沼を擁護するわけではないが、つい星野は口を挟んだ。


「黒川、もっと穏やかに話し合いをしないと……」


 星野の声に、黒川は今度は彼に食ってかかった。もともと熱のある若者だ。いつもはさわやか系だが、こういうところはさすが団を結成して運営するだけのパワーがある。


「星野さん! あんたは部外者だろう? 口出ししないでくれ。音楽の一つもやっていないくせに——」


「黒川! お前。星野くんに失礼なことを言うんじゃない」


 ——音楽の一つもやっていないくせに……。


 顔面パンチを食らったみたいにくらくらとした。つい思わず側の壁に手を着く。菱沼はきっと黒川をにらみつけた。


「黒川。お前は自分のエゴを通そうと周囲を傷つけるつもりか? おれは、それを良しとはしない。音楽をやるということは、そういうものではないからだ。お前がそういう態度なら、おれはしばらく練習は遠慮させてもらうよ」


 菱沼は怒りとも落胆とも取れない複雑な表情を浮かべる。それを見て、黒川はかっと顔に血が上ったのか、さっさと走り去った。


 取り残された菱沼は、立ちつくしている星野を見つめた。


「星野くん、すまないね。僕の指導が悪かったようだ」


「い、いえ。いいえ。大丈夫です」


 ——大丈夫じゃねー!


 しかし菱沼にあたっても仕方のないことだ。何事もなかったかの如く、取り繕おうと努力するが、その言葉は星野の根幹まで傷つける強烈な言葉だった。


「黒川はパワーがある分、爆発すると周囲への配慮に欠ける。今回も定期演奏会の演目で衝突してしまってね……」


「そうですか」


「僕はね。お客さんに喜んでもらいたいんだよ。難易度の高い曲を羅列しても退屈なだけだ。途中にお楽しみ曲を入れたいんだけどね。どうしても聞き入れてくれないんだ」


「——そうでしたか。おれは、先生の言い分のほうが最もだなって思いますけど」


「さてね。黒川がどう考えるか。頭を冷やしてくれるといいんだけどね」


 菱沼は寂しそうに笑うと、「僕も失礼するね」と立ち去って行った。

 星野はその場でじっとしていた。


「きついな……」


 ——苦手なら、もう触れなきゃいいのに……。


 光に憧れて、つい寄って行って身を焦がす虫と同じだ。 いくら恋焦がれても、それを手にすることはできないのだ。触れれば触れるほど、ジリジリと体が焼かれるように痛みを伴うだけだ。


 姉はもうすっかり音楽など携わっていない。東京で出版会社に勤務している。音楽には興味がないと常に言っている。

 彼女の興味はもっぱら観劇だ。美しいものへの憧憬はあるにせよ、興味を持つところは音ではなく視覚だ。

 やりたくてもやれなかった自分は今でもこうして追い求めているというのに——だ。


「くそ」


 握りしめた拳で壁を叩いてじっとしていると、人の気配にはっとした。


「星野さん?」


 ふと顔を上げると、あおが心配そうな顔をして立っていた。


「あ、悪りぃ……」


「大丈夫ですか? 星野さん」


 ——こいつは、ちょっとしたことにすぐ気が付く。そういうところ、嫌になるな。


「蒼」


「はい」


「お前、これから予定ある?」


「え? ないですよ」


「じゃあさ、付き合えよ……」


 目を瞬かせている蒼にそれ以上のことは言わずに星野は歩き出した。





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