第2話 星野という男
二人でそんな話をしていると、「こんばんは~」と眼鏡で長身の男が顔を出した。
「また来たのかよ。さっさと東京で活躍しやがれ」
星野が文句まがいの言葉を投げかけると、眼鏡の男は苦笑いをした。
「そんな意地悪言わないでくださいよ。星野さん」
彼はふと蒼に視線を向けた。
「この前言っていた本だ」
「関口。ありがとう」
蒼は嬉しそうに関口から一冊の本を受け取る。
最初の頃は喧嘩ばかりしていた二人なのに、いつの間に仲良くなったのか。なんとか仲良くなるように立ち回ったつもりだが、肝心のところがわからないのは癪だった。
今度蒼に問い詰めないと、と思いつつ、星野はその本に視線を落とした。
「なんだよ。音楽史か」
「おれ、音楽のこと一つもわからないので、関口が色々と教えてくれるんですよ」
「教えるって、本当に初歩の初歩ですよ。蒼はバカが付くくらいのド素人ですよ。星野さん。もっと教えてあげてください。最初から教えるのってきついです」
「はあ? なにそれ。失礼だね。人間は誰しも最初は初心者なんだからね。関口だってそうでしょう?」
「なに言ってんだよ。僕は生まれた時から音楽に囲まれていたからね。蒼とは違うんだよ。バカ蒼とはね」
「な……あのねえ。言わせてもらいますけど、関口ってお育ちがいいと思っていたのに、結構、口悪いよね? 星野さん、どうしたらこんな子になっちゃうんですか?」
星野からしたら痴話喧嘩にしか聞こえないようなどうでもいいやり取りを見ていると笑ってしまった。
「笑うところじゃないですよ」
「そうです」
——ほらほら。気が合うじゃねーか。
「あ~あ。おれはラウンドにでも行ってこようっと」
「星野さん!?」
「逃げないでくださいよ」
「はいはい。お二人さんでごゆっくり」
一時期、カビでも生えるのではないかと暗かった蒼もすっかり持前の明るさを取り戻した。
それに星野が嬉しいのは、関口の変化だ。いつも年上の自分たちに囲まれていた彼が、蒼と一緒にいる時だけは年相応に見えた。
——あの二人、いいのかも知れねえな。
懐中電灯をぶらぶらとさせながら、星野は薄暗い廊下を歩いて行った。
***
星野
星野一郎は昭和を代表する作曲家だ。歌謡曲からクラシックまでなんでも手がけた創作意欲のある作曲家で、生涯で六千曲以上を作曲したと言われている。
本来はそんな音楽家系であるはずの星野家だが、作曲にばかり没頭した祖父を見て育った星野の父親は、子供たちに音楽をやらせようとはしなかった。
かろうじて姉は嗜み程度でピアノをやらせてもらえたが、「男が音楽をやるものではない」と言って、星野にそれを習わせてくれることはなかった。
やりたいことをやらせてもらえないというのは、逆に執着を生むものだ。姉の部屋に入ってこっそりピアノのレコードを聴いた。星野にとったら、それはそれは至福の時であったことは言うまでもない。しかしすぐに姉に見つかってそれも叶わなくなった。
星野は音楽に餓えていたのだ。
父親から止められた過去のしがらみにとらわれていたおかげで、中学校になっても音楽系の部活に入ることは避けた。
表立って音楽が好きだと言えない子になっていたのだ。楽器を演奏している友人たちを羨望の眼差しで眺めていた。出来ないことへの憧れや苛立ちは、別な方法で昇華するしかなかった。
星野は美術部に入部し、ひたすら絵を描いたり、工芸作品作りをしたりした。まっとうに勉強に打ち込んだおかげで、成績はそう優秀でもなかったが、梅沢市役所に就職できるくらいのレベルだった。
入庁して数年は本庁内を回った。もともとコミュニケーションが苦手なタイプであったおかげで、同僚や上司ともうまくいかないことが多々出てきた。そんなことが人事課にも上がったのだろう。大して昇進することなく、
これからは仕事として音楽に携われるからだ。
星野がここに配属されて、上司は二人目だ。一人目の上司は気難しくて、流刑地に送られてきたストレスから部下たちに八つ当たりをする男だった。そんなタイプだからここに送られてきたのだろう。定年前ということで、あの時は職員みんなで口をつぐんで耐え忍んだ数年だった。
そして、次にやってきたのは現課長の水野谷だ。彼は市役所ではエリートコースをたどっている職員だと聞く。それなのにここに送られるとは……。なにか失態でもやらかしたのではないかと、当初、氏家たちと話をしていた。
しかし、それにしても彼は優秀だった。星野の使い方をよく把握してくれている。星野がやりたい仕事、得意な仕事をよく与えてくれた。そして苦手な仕事は、他にやれる職員に振ってくれるのだ。
本当にいい上司である。なのに、なぜ流刑地の管理職を担っているのだろうかと疑問だった。その後も本庁勤務をしている同期にそれとなく探りを入れたが、彼に関する悪い噂は一つもなかった。
結局は水野谷がなぜ星音堂長に収まっているのかは謎のままだ。
梅沢市役所職員としての人生はそう悪くなくなった。星野の人生はそこそこ悪くないものになったのだ。しかし結局、音楽に携わることが叶わなかった自分の人生を褒めることはできなかった。
「これからやればいいじゃないか」
そう言ってくれる友人はいる。しかし星野にとったらそういう問題ではないのだ。やりたい時にやれなかったジレンマは、今さら解消できるものでもないのだ。
——こんな知識ばっか増えたって、なんの意味もねえ。
時計の針が夜九時を指す頃、遅番組は戸締り見回りと事務所の片付けに分かれる。新人の蒼に事務所を任せて、星野は廊下に出た。
「今日の利用は……と」
各練習室の利用団体を頭の中で繰り返し確認しながらあちこちを見回った。玄関に向かい帰途に就く利用者たちの流れに反して歩いていくと、中庭に面している休憩スペースで揉めている声が聞こえた。
「先生! ですから……もう少し、おれたちの思いを聞き届けていただけないのでしょうか?」
切々と訴える男の声は
——あいつ、また。
UMアンサンブルは若手揃いのおかげで、自分たちの実力を過信しすぎているところがあると、顧問で指揮を任されている
「僕は納得できないよ。演奏会というのは自分たちのスキルを誇示するためだけのものではないと思う。お金を払ってきてくれたお客さんたちを悦ばせるような構成にしていかないと……。そのためには、こんな堅苦しい曲ばかりでは」
「だからって。おれたちの意向に反した曲を入れろというのですか?」
「黒川……」
首を突っ込むのは得策ではないと思っていたが、突っ立って聞いていたことを菱沼に気取られた。菱沼は「星野くん」と顔を上げた。
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