未定
夏野 鈴
第1話
目の前には一枚のプリントがあった。無機質な灰色の机に置かれているプリントに、一度目をやり、左斜め下に逸らす。
「藤原さん、将来何かやりたいことはありませんか?」
先生は、多分私の目を見て話してくれていると思う。生徒に対しても、さん付けで呼び、敬語で話す。加えて男性なのに線が細くて、若いし、優しそうな雰囲気があるのもあって、多くの生徒からは学生のように親しまれているけれど、そんなところが私は好きで、私は嫌な話をされると分かっていても、先生のところに来てしまう。でも、私の方は、その先生の目を見れない。右方向に目を逸らし、何かよく分からないファイルが並べてある棚の支柱を眺めていた。
やりたいことなんてなかった。小さいころには、何かはあったと思う。歌手とか、お医者さんとか、子ども向けアニメの悪役と戦うキャラクターとか。でも、小さいころの夢なんて、成長していくうちに薄れていって、将来自分は、どこかの会社のOLになって、毎日夜遅くまで残業して、家に帰って寝て、起きて、また会社に行く。そんな日々を送っていくのだろうなんて、夢のないことを考え始める。
「藤原さん」
先生の声で、視線が引っ張られた。やっぱり先生は、私の目を見ていてくれていた。嬉しくなって、次は少し恥ずかしくて視線を落とす。
「将来と言ったら考え込んでしまうんですかね。今、好きなことでもいいんです。藤原さんは、確か絵を描くことが趣味でしたよね?そういうところから……」
指先が震えた。何を考えたらいいかわからなくなった。
絵。絵。エ。エ。
目線が固まって、どこにも行けなくなった。
「藤原さん?」
「え。あ。……はい、そうですね」
「一週間後、また提出して下さい。何か書いていてくれると嬉しいです。名前だけでもね」
こういうところだ。進路志望調査書に名前すら書かなかった私を、怒らず、放課後呼び出して時間を使ってくれる。先生は私にプリントを差し出す。私より少し大きく、黒くて、角ばっている男の人の左手。薬指にまだ新しい指輪が光っている左手。
こういうところだ。現実ってのは夢がない。
私には、歌で人を元気にさせる力も、病を治して人を救おうという素晴らしい情も、悪役と戦う勇気も、持ち合わせていなかった。もちろん、人を惹きつけるだけの絵を描く才能も。
「ありがとうございます」
そう言ってプリントを受け取り、職員室を出る。途端にプリントはただの紙切れになった。紙飛行機にでもして飛ばそうと思ったが、これ以上先生を困らせて、時間を使わせるのは嫌だと思い、半分に折り曲げようとした手を止める。冬の夕空は痛いほど赤く、やっぱり紙飛行機にして飛ばしてやったほうが、この紙も本望なんじゃないか、なんて思いながら、教室に戻った。
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