第83話 逃げを打つ

 闇に浮かんだ巨大な蝶がバラバラと崩れ始めたころ、まるでそれを嘆くような雄叫びが、街中に響き渡った。


 その雄叫びは当然、東門の上にいる俺の耳にも届いている。


「焔幻獣……なんだっけ?」


「ラージュよ。流石に覚えておきなさいよ」


 俺の言葉に呆れたシエルが、ため息を吐きながら教えてくれる。


 それにしても、よく覚えてるな。


「そっか、ラージュか。本気でヤバい奴なんだよな? で、どうする? まだ続けるか?」


 俺はそう言いながら、バーバリウスとアンナを見た。


 作戦では、ハウンズが焔幻獣ラージュの対応に追われている間に、俺や師匠が街から脱出するということになっている。


 しかし、それは作戦が上手くいけば、という話だ。


 つまり、今この場において、目の前にいる二人の行動が、この後の俺の行動を左右することになる。


 もし焔幻獣ラージュの対応に一人しか行かない場合、俺はどちら一人から逃げ切らなければならない。


 そんな俺たちの作戦を知ってか、バーバリウスが怒りや苛立ちの入り混じった表情で眼下に広がる街を見下している。


 対するアンナは、巨大な白い羽で空を旋回し、街の様子を見ているかと思うと、手にしていた剣を鞘に納め、ゆっくりと降りてきた。


 柔らかな仕草で降り立つ彼女だが、その表情は非常に険しい。


 キッとつり上がった目で俺を睨みつけたかと思うと、バーバリウスに軽く会釈をして、話し始める。


「バーバリウス様。私は街へ降り、市民の避難とラージュの足止めを行います。バーバリウス様は、直ちに封印の準備をお願いします」


 端的にそれだけ告げた彼女は、もう一度会釈をしたかと思うと、縁石に飛び乗り、そのまま街へと落下していった。


 静寂の中に、翼で羽ばたく音が聞こえるため、宣言通りに市民の避難誘導に向かったのだろう。


 そしてその場に残されたのは、俺とシエル、アーゼン、バーバリウスの3人だった。


 いまさらながら、俺以外の二人の傍には、バディの姿が見えない。


 この世界では、バディを傍に連れておくのは珍しいことなのだろうか?


 しばし続いた沈黙の中で、ただひたすらに街を見下ろしていたバーバリウスが、ゆっくりと俺たちの方へと振り返る。


 その表情には、先ほどまでの怒りや苛立ちは確認できず、妙に落ち着いて見えた。


「これは、お前が考えたのか……?」


 ジーッと俺を見つめたバーバリウスは、珍しく静かにそう告げた。


「……っ」


 咄嗟に否定しようとした俺は、ギリギリのところで声を押し殺し、バーバリウスを睨みつける。


 迂闊にこちらの情報を漏らしてしまうわけにはいかない。


 今はまず、アルマの救出と俺たちの脱出を成功させなければならないのだ。


「どうやら違うようだな。まぁ良い……どちらにせよ、軟弱なお前が思いつく作戦とは、到底思えん。となると……」


 そう続けたバーバリウスは、俺の隣で退屈そうに立ち尽くしているアーゼンを一瞥した。


 視線に気づいたアーゼンは、額に青筋を浮かべつつも暴れだすことはなく、代わりに唾を吐き捨てる。


「そいつらの仲間か……忌々しい」


「随分と余裕みたいだけど、いつまでもここにいて良いのか? さっきの女騎士から頼まれてただろ? 封印」


 中々立ち去ろうとしないバーバリウスに、俺は皮肉を込めて告げた。


 焔幻獣ラージュは非常に危険な怪物であり、街一つくらいなら、簡単に滅ぼしてしまう。


 そんな怪物をハウンズが飼っていること、しかも、ゼネヒットの西にある武器庫にて管理されていること。


 これらの情報をウィーニッシュ達が知り得たのは、バーバリウスの推測通り、モノポリーの情報網が由来である。


 そして、ラージュを封印できる人物が限られていることと、そのうちの一人がバーバリウスなのだということも、モノポリーから得た情報だ。


 言い換えれば、焔幻獣ラージュにとってバーバリウスは天敵である。


「飼い犬に噛みつかれる気分はどうだ? 少しは自分の行いを見返してみようとか、思ったりする?」


 俺は悪いことだとわかっていながらも、さらに皮肉を込めて、そんなことを言った。


 しかし、俺のそんな煽りを嘲笑したバーバリウスは、ゆっくりと右腕を天に突き上げる。


 咄嗟に身構えた俺やアーゼン。


 バーバリウスの一挙手一投足に全神経を集中させていた俺は、何度目かの瞬きの後に、変化に気が付く。


 突き上げられたバーバリウスの手の上に、一本の鷹が姿を現したのだ。


 黄色の瞳が、俺をじっと見つめてくる。


 そんな瞳を見つめ返していると、目に穴が開いてしまいそうだ。


 どれだけの時間見つめ合っていたのか、俺の時間の感覚があいまいになりかけていた

 時、バーバリウスが鷹に語り掛けた。


「状況は?」


「屋敷襲撃。刺客は男、名はヴァンデンス。光魔法だけでなく、リンクを使う。女は連れ去られた」


「役立たずどもが……」


 淡々と交わされるやり取りを耳にしていた俺に、シエルがささやきかける。


「ニッシュ、あの鷹、どこから飛んできたか見た?」


「いいや、少なくとも俺の目には、突然現れたように見えた」


 俺もささやき返しながら、改めて鷹の姿を目に焼き付けた。


 まず間違いなく、この鷹がバーバリウスのバディなのだろう。


 そして、これは推測でしかないが、この鷹は姿を隠したり瞬間移動するなどといった能力を持っているかもしれない。


 そう考えると、今まで疑問に思っていたいくつかの説明が付く。かなり厄介だ。


「頃合いか。……ウィーニッシュ、今回はお前たちに勝ちを譲ってやろう」


「……は?」


 ついに姿を現したバーバリウスのバディについて思考を巡らせていた俺は、不意に告げられた言葉に、上手く反応できなかった。


 突き上げていた腕をゆっくりと降ろし、ため息を吐いたバーバリウスは音もなく宙に浮かび上がる。


 それと同時に、彼の姿がジワジワと揺らぎ始めた。


 瞬間、退屈そうにしていたアーゼンが焦ったように一歩を踏み出し、バーバリウス目掛けてとびかかる。


 ブンッと音を立てて薙ぎ払われたアーゼンの右腕は、薄れてゆくバーバリウスの像を揺らす。


「てめぇ! 逃げる気か!?」


 空ぶった勢いのあまり、城壁の縁石に拳を打ち付けたアーゼンは、振り返りざまにそう叫ぶ。


 唖然とその様子を見ていた俺は、そこでようやく、バーバリウスとアーゼンが放った言葉の意味を理解した。


 勝ちを譲る。


 そして、逃げる。


 よくよく考えれば、当たり前の判断ではないだろうか。


 つまり、バーバリウスは焔幻獣ラージュの封印を放棄して、逃げたのだ。


「マジかよ……」


 完全に姿の消えてしまったバーバリウス。


 彼が元々立っていた場所を睨みつけていた俺に、シエルが声をかける。


「でも、ここで逃げちゃったら、バーバリウスにとっても損なんじゃないの?」


「そうだな。けど、あいつが無策に逃げるような奴だとは思えないし……」


 取り逃がしたことに憤りを覚えているのか、アーゼンは拳を縁石に打ち付けている。


「どうする? どっちにしろ、私たちはここでバーバリウスと決着をつけるつもりは無かったわけだし……。このまま逃げちゃう?」


「そうだな。ラージュとやらは、王国の騎士様がなんとかしてくれるだろ。翼とか生やして、めちゃくちゃ強そうだったし」


 気を取り直して、その場から立ち去ろうとした俺は、一歩を踏み出したところで盛大にコケてしまった。


 決して、自身の足に引っかかったわけではない。


 何の前触れもなく、城壁に無数のヒビが入り、轟音が轟いたのだ。


 ガラガラという音と共に崩れ始める城壁。


 咄嗟に体勢を立て直した俺は、崩れる瓦礫から逃げるように、ヒビのない場所まで何度も跳躍した。


 そうしてようやく、まだ崩れていない城壁の上にたどり着いた俺は、崩れた個所を見下ろして、息をのむ。


 石造りの堅固な城壁が、10メートルくらい。まるでえぐり取られたように崩れてしまっている。


 そんな城壁の崩れた個所からゼネヒットの中心まで、幅十数メートルの黒い線が入っていたのだ。


 それらは、燃やされて黒ずんだ建物や瓦礫の痕跡であり、尋常ではない火力を物語っている。


「何が起きて……」


 あっけにとられた俺は、眼下の焼け跡の中に一人の人間が倒れていることに気が付く。


 覚束ない足取りで何とか立ち上がろうとしては、顔面から地面に倒れてしまう女性。


 着ていたはずの鎧も殆ど吹き飛んでしまったのか、全身が黒ずんで見える。


 背中に生えていたはずの白い翼は、焼け爛れ、殆ど残っていない。


 そんな彼女が向かおうとする先に目を向けた俺は、一体の怪物を目の当たりにしたのだった。

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