第72話 早朝の集い

 朦朧とする意識の中で俺が感じたのは、ひんやりとした床の感触と、何かを叫ぶ誰かの声だった。


 痛い。


 頭では理解しているはずの痛覚が、時間とともに薄れていく。その感覚に俺が恐怖した途端、唐突に視界が鮮明になった。


 夢でも見ていたのかと、自分の意識を疑った俺を覗き込んだのは、ヴィヴィの羽をもったシエル。


 その姿を見た瞬間、俺は状況を理解した。


 寝転がった状態から急いで立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってこようとしているバーバリウスを睨みつける。


 バーバリウスに掴まれていたはずなのに、少し距離があるのは、おそらくシエルのおかげなのだろう。


 ドワイトやリノも、俺と同じようにバーバリウスから距離を取りながら身構えている。


 ドワイトが少しだけ足を引きずっているようだが、重傷は負っていないようで、俺は安心した。


「ニッシュ、大丈夫?」


「あぁ、なんとかな。助かった。ありがとう」


「それは全部片付いてから、もう一度言ってちょうだい」


 いつもなら軽口の一つや二つを並べそうなシエルが、真剣な口調で告げる。


 彼女が焦るのも無理はない。何しろ、北から迫ってきていた兵士たちが、もうすぐそこまで迫っているのだ。


 どうすればいい?


 この状況で俺たちに残されている選択肢は、あまり多くない。


 バーバリウスを倒してしまうことができればいいが、そう容易いことではないだろう。


 かといって、逃げ出すことも、非常に困難だ。


 ヴィヴィの羽は残り二枚。


 こんなことなら、さっきゴストー達に残した羽を、もう少し持ってくるべきだった。


 非常に情けのない後悔を抱きながら、俺はドワイトに目配せをする。


 せめて彼だけでも先に逃がすことができないだろうか。


 そんな意思を込めた俺の目配せを、ドワイトは無視した。


 冷徹さと鋭さを包含している彼の眼光は、一貫してバーバリウスに注がれている。


 どうやら退く気はないらしい。そうと決まれば、やることは一つだ。


「バーバリウス。降参するよ」


 体勢を低くしていた構えを解き、両手を挙げてみせる。


 そんな俺の様子を見たバーバリウスは、眉間にしわを寄せて明らかにいぶかしんでいる。


「何を言っている?」


「いや、だから降参するって言ってんの」


 俺はそう言いながらバーバリウスの目を凝視した。


 そんな言葉を交わす俺たちを見て、一番驚いているのはドワイトのようだ。


 まぁ、当たり前か。


 両手を上げたままの俺をさらに怪しむバーバリウスは、不敵な笑みを浮かべたかと思うと、右腕を前に突き出した。


 その瞬間、俺は視界の左端に一筋の光を捉え、瞬間的に魔法を発動する。


「放電!」


 叫ぶと同時に、俺の両手の指先から、バリバリと音を立てる稲光が走ってゆく。


 当然、狙いはバーバリウスの体だ。


 一か八かで放ったその稲妻が、あと少しでバーバリウスの体を貫きそうになった時、北の方から腹に響くような鈍い音が響いてくる。


 その音に呼応するように、バーバリウスの足元が隆起したかと思うと、武骨な石壁が姿を現し、稲妻の進路を妨げてしまった。


 石壁に弾かれてしまった稲妻は、最後に大きな炸裂音を発したのち、空気中に霧散してゆく。


「なっ!?」


 突然の妨害に焦りを抱いた俺は、先ほどの音の方へと目を向ける。


 そこにいたのは、この場にそぐわないほど華奢な、一人の女騎士だった。


 頭から足先まで、見事な銀色の鎧を纏っているその騎士は、背後にたくさんの兵士を待機させて、剣を床に突き立てている。


 彼女は俺達から軽く十メートル以上は離れて立っている。


 もし、女騎士が石壁を作ったのなら、俺達にとって敵であることは間違いない。それも、かなりの強敵だろう。


「誰!?」


「知らねぇよ」


 俺達から見て右側に陣取った女騎士と兵士達は、しばらく沈黙を貫いた後、女騎士だけ、歩みだしてきた。


 視線は見えずとも、仕草からチラチラとこちら警戒していることだけは伝わってくる。


 抜き身の剣を右手に構えながら、黙々と歩いた女騎士は、せりあがっていた石壁の傍にたどり着くと、壁を軽く叩き、話し始めた。


「バーバリウス様、やはりここにおられましたか。お怪我はありませんか?」


 小突かれたと同時にボロボロと崩れてゆく石壁。その奥で、バーバリウスが妙に仰々しく話し出す。


「これは、アンナ殿。危ういところを助けていただき感謝いたします。そうです。その少年が、例の少年です」


 普段との態度の差に、思わず茫然としてしまいそうになった俺は、気を取り直してバーバリウスを睨みつける。


「そうですか。それでは、私も手加減はできませんね」


 バーバリウスの言葉を聞いた女騎士は、どこか声音に怒りを滲ませると、手にしていた剣を俺に向けた。


「ニッシュ、これってどういう?」


 困惑するシエルの言葉に、俺は何も答えず、バーバリウスを睨む。


 正確なことはわからないが、バーバリウスのことだ、俺のことについて何か良くない話でも聞かせたんだろう。


 だとするなら、女騎士を説得してもあまり意味はないかもしれない。


 万事休すか。


 今にも攻撃を仕掛けようと、女騎士が俺たちににじり寄った時、バーバリウスの背後から、何者かが飛び上がってきた。


 城壁の下から飛んできたのか、勢いよく縁石を飛び越えたその影は、俺と女騎士のちょうど中間に着地する。


 ズシンという地響きと共に姿を現した巨体の男アーゼンは、首をゴキゴキと鳴らすと、俺を一瞥して、言い放ったのだった。


「待たせたな。この俺様が来てやったぞ」

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