崩壊sense
学校に行きたくないと願うことは誰しもある事だと思う。
例えばクラスの空気が自分に合わない時。
例えば友達と喧嘩したとき。
例えばテスト勉強をしてないとき。
提出物を出していない時。
きっと学校に行ってしまえば、一つ目を除いてそれとなく一日を過ごすことが出来るだろう。
学校に行くための1歩を踏み出すか否かの違い、云わば「たった1歩の勇気」の違いなのである。
きっと誰しも自分に合わない居場所があるだろう。それはバイト先や会社、学校、はたまた自宅かもしれない。
自分だけが隔絶された場所にいるような疎外感、孤独感。
思考が違う、学力が違う、性格が違う、なにかの違いで疎外感を感じてしまう。
本人が感じなくても、周囲が何らかの理由で一線をひき疎外感を作り出す。
歴史でも繰り返されたことである。貴族のカースト制度、白人主義、ホロコースト、日本で言うなら穢多非人。数えあげればキリがない。
目立って差別しなくても、心の中で思うだけでも弱い心の支柱になるのだろう。
それを無意識に作ることこそきっと人間の性なのだと思えるほどに学校という小さな社会の中で繰り返されている。
いくら学ぼうとそれが止まることは無い。
行こうと思うようにするには、快く行くためにはそれを壊さねばならない。
時として義務教育時や母親に
「人にされて嫌なことはやらないこと」
と教わった人はとても多いように思う。
かく言う僕もそのひとりで、なにかする時にはその言葉がついてまわった。
人を殴った、人を蹴った、骨を折った。
その時決まって先生から
「あなたも痛いのは嫌でしょう、人にやられて嫌なことはしないで」
うわ言のように繰り返された言葉。
最近僕の中で繰り返される言葉だ。
また別の人は言う。
「悪ガキどもめ、イタズラばっかしてせやねぇな、痛い目見なきゃわかんねえのか」
「痛い目」、確かに実害があれば覚えるだろう。
「これはやってはいけない」
「これをすると怖いことがある」
一種の刷り込みである。
「痛い目に合わせる」
「嫌なことはしない」
相反するふたつの言葉は絶対王政や戦国時代を彷彿とさせる。
相手を凌ぐために、相手をたたきおとす為に
「痛い目に合わせ」、
裏切りや反発をしないよう、子供には
「嫌なことはしない」
と刷り込む。
自分がやられて嫌な「謀反」や「クーデター」はしないように。
子供は喧嘩しないこと、叩かないこと、人のものを取らないことなど、身の回りに換算し、小さなものに結び付けて覚える。
当たり前の倫理観を当たり前のように身につける。
それを超えてクーデターを起こすとき、変えなければならない時、 そのことをきっかけに保たれていた均衡は崩れ、ひっくり返るようにして姿を変える。
学校でも同じことだ。
相手をひどく糾弾し、ひっくり返さねばならないとき。
清々しく訪れる崩壊はとても目を当てられたものじゃないだろう。
しかしきっとそこは、あなたの生きやすい世界になるはずだ。
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