第二十五話 黒衣の騎士。
夜遅くに帰って来たアルテュールは疲れ切っていた。笑顔に力がなく、顔色も悪い。
「お帰りなさい……どうしたの?」
「……ああ、話が通じない相手との交渉は消耗するというだけだ。……イヴェットがいてくれるから、私は頑張ることができる」
強く抱きしめられ、安堵の息を耳元で聞くと、ドレスのことを聞いてもいいのかわからない。早く休ませてあげたいと思う気持ちと、確認しておかなければという気持ちがせめぎ合う。
「イヴェット? どうした? 何か心配事でもあるなら教えて欲しい」
私の葛藤はアルテュールに伝わってしまったらしい。頬を撫でられて、私は正直に口を開く。
「あの白いドレスは王子妃のものなのでしょう? 私には……着る資格が……」
「イヴェットには着る資格がある。誰にも文句は言わせない」
アルテュールの言葉は嬉しくても不安は残る。貴族でもなく、結婚していた女。死亡届が出されていても、私はこうして生きている。
愛人を王子妃と同格の扱いにできる程、アルテュール個人に権力があるということだろうか。
「信じてはくれないか?」
アルテュールの声が不安に揺れた。
「……大丈夫、私はアルテュールを信じます」
覚悟を決めなければ。王子の愛人と陰で囁かれても、アルテュールの隣に立つ為に。周囲の人々から何を言われても逃げない覚悟を。
私が愛人になることで、未来の王子妃を悲しませることになるのは理解している。誰かの悲しみの上に成り立つ関係は長く続かないのではないかという恐怖もある。それでもアルテュールと離れたくない。
私が出来るのは覚悟をして、何があってもアルテュールの言葉を信じることだけ。
「ありがとう」
囁くアルテュールの腕の中、私は王子の愛人になる覚悟を決めた。
◆
舞踏会当日、私はノーマに支度を手伝ってもらって、白い王子妃のドレスを着用した。金色で刺繍されたアルテュールの紋章が重い。
「今日も綺麗だ、イヴェット」
額に口づけたアルテュールは、私に宝冠と首飾り、耳飾りを着けた後、揃いの白い仮面を取り出した。顔の上半分を覆う白い仮面は、金糸の刺繍が施されている。
「イヴェット用の仮面だ。着けてくれるか?」
「はい」
仮面には紐が付いていて、頭の後ろで結ぶようになっている。アルテュールは髪で隠しているので目立たなかった。
「綺麗な顔を隠してしまうのは残念だ」
私の仮面の目元に、アルテュールは口づけた。美しいドレスを着た喜びと、公式の場に共に出る恐怖が混じり合って、鼓動が跳ね上がる。
「行こうか」
アルテュールの差し出した腕に手を掛けて寄り添うと、魔法陣が赤く光り輝いて一瞬で転移した。
ぼんやりと暗い魔法灯が一つだけ置かれた窓のない小さな部屋の壁全面には本棚。厚い革表紙の本が多い。床と天井に魔法陣が描かれている。
「ここは?」
「私の寝室の書庫だ。ここも隠し部屋になっているから誰も入ってこない」
館の隠し部屋と同じように本棚の本の一冊を押し込むと、扉が開く。大きなベッドが置かれた寝室を通り抜け、案内された部屋には色とりどりの花が溢れるくらいに飾られていた。
「この花々は……」
「……通常……花はない。……側近たちの仕業だろうな……今は準備で忙しいだろうから後で紹介する」
アルテュールが耳を赤くして口を引き結ぶ。
座り心地の良い長椅子に腰かけていると、扉が不思議な拍子で叩かれた。
「あれは合図だ。準備が出来たらしい」
扉の外で待っていたのは、黒で複雑な装飾がされた黒い詰襟の上着を着た男性。腰には剣が下げられているから騎士なのだろう。マリーが〝百華の館〟で着ていた服に似ている。
騎士の先導でアルテュールと一緒に部屋の外へ出た。王城の廊下は白い艶やかな石で出来ていて、赤い絨毯が中央に敷かれている。魔法灯が明るく輝き、壁の白を反射して煌めく。花瓶や彫像、絵画が整然と飾られていて飽きない。
次の部屋に向かうまで、幸いにも誰とも会うことはなかった。騎士が扉を軽く叩き、中からの返答に合わせて開く。私たちが部屋に入ると、騎士は一礼して扉を閉めた。
「お待ちしておりました。アルト様」
穏やかな笑顔で迎えてくれたのは一組の中年の夫婦。他には誰もいない。侍女すらいないのは不思議だと思う。
「はじめまして」
優しい笑顔で微笑む女性は、私と同じ金茶色の髪をしていた。豪華なドレスは貴族階級であることを示している。
「こちらはグナイゼナウ公爵夫妻だ」
アルテュールの紹介を受け、私はフリーレル王国での貴族の礼を行う。
「初めまして、イヴェットと申します」
家名を名乗ることはできなかった。子爵家の娘でもなく、侯爵夫人でもない今、私はただのイヴェットでしかない。
身分を無くした女が、王子妃のドレスを着ていることを咎められたりしないだろうか。不安が胸を締め付ける。
「イヴェット様のお顔を見せて頂くことはできないかしら?」
公爵夫人がアルテュールに問う。
「イヴェット、外してくれないか?」
アルテュールに言われれば、外すしかない。結ばれた紐を解くことができなくて、アルテュールに解いてもらった。仮面を外すと視界が一気に広がって、肩の力が抜けていく。
「まぁ、とても美しい方ね」
柔らかな公爵夫人の手が私の手を包む。何故かほっとするような温かい雰囲気を持っている素敵な方だと感じる。
「ありがとうございます」
褒められたことが嬉しい。今日の私が輝いているのもアルテュールが贈ってくれたドレスとノーマの素晴らしい手技のおかげ。
しばらく四人で談笑した後、公爵夫人がアルテュールに向かって言った。
「アルト様、イヴェット様と二人きりでお話したいのだけれどお許し頂けるかしら」
「どうぞ。それでは外で待っています」
アルテュールと公爵が部屋から出ようとした所を公爵夫人が止めて、私の手を引いて庭園へと続く窓を開く。
「外は……」
難色を示したアルテュールに公爵夫人が微笑む。
「大丈夫ですよ。王城庭園は我が国の優秀な騎士たちが護っています。一回りして戻ってきますから」
「わかりました。……イヴェット、何かあったら呼んで欲しい。大きな声をだせば必ず聞こえる」
心配気な顔をしたアルテュールに見送られ、私は公爵夫人と庭園に出た。
◆
王城の庭園の木々には魔法灯が吊るされていて、とても明るい。まだ夜の時間ではないのに、厚い雲に覆われた空は暗く、降雪を予感させる。
「イヴェット様がやっと王城へいらっしゃって、本当に良かったと思いますのよ。アルト様もお早く紹介して下さればよろしかったのに。殿方は追い詰められてからでなければ、覚悟できないものですものね」
公爵夫人が優しく笑う中、私はアルテュールが何に追い詰められていたのか気になっていた。
「あの、今日はお兄様の御子の祝いと伺っておりますが……追い詰められてとは一体何のことでしょうか」
「まさか、アルト様は何も貴女に説明していらっしゃらないの?」
さっと公爵夫人の顔色が変わり、深く溜息を吐く。
「わたくしから説明するのは問題があると思いますが、このままでは何もおっしゃらないかもしれないので申し上げます。アルト様は今、外国の姫君に迫られていらっしゃいますのよ」
全く想像もしていなかった話で、血の気が引いていく。
「ずっと断っていらっしゃったのに、自分は顔のアザを気にしないので結婚して欲しいと姫君が押し掛けて来られたの」
それはアルテュールが疲れた顔で帰ってくるようになった時期と一致する。
「姫君だけなら多忙を理由に避けても問題ないのですけれど、その国の第一王子も一緒にいらっしゃっていて。豊かな我が国と国力の差はあれど、次代の王を無下にもできないでしょう? アルト様は毎日王子の相手をされていて、自分には婚約者がいると仰ってしまったの」
「それで……」
私を婚約者として王城に連れて来たのか。
「貴女のような美しい方が婚約者なら、きっと姫君も諦めておしまいになります。貴女は堂々とアルト様の隣に立っていらっしゃればよろしいのよ」
公爵夫人の言葉は優しくて。それでも私は喜んでいいのかわからない。王子妃の資格が私にはないと夫人はご存知ではないのだろう。
暗い気持ちを隠して話を聞きながら歩いていると、前方に黒い人影が立ちはだかった。背が高く、白金髪に水色の瞳の端整な顔立ち。
「イヴェット、やっと、見つけた。待たせてすまなかったね」
聞き覚えのある声に体が震える。これは閨でルイーズに話し掛けていた口調と同じ。激情を包み隠す優しくて甘い毒のような声色。
「君が姿を消してから、ずっと心配していたよ」
私には一度も向けられなかった優しい笑顔を浮かべ、フリーレル王国の黒い騎士服に身を包んだダグラスが立っていた。
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