第二十一話 仮面の下。
落ちた私の下敷きになり、仮面が外れた王子と見つめ合ったのは一瞬。青い目を見開いた王子は、片手で顔の上半分を覆い、外れた仮面を探すように周囲を見回す。
王子の仮面の下に隠されていたのはアザではなかった。黒い蛇の鱗と、蛇のような青い瞳。
「……ロブ?」
私の問い掛けに、王子がびくりと体を震わせた。少しして、深く息を吐く。
「……ああ。黙っていてすまない」
片手で顔を隠す王子の体の力が抜け、地面に完全に沈んでいく。
「謝らないで。私、アルテュールがロブで嬉しいの」
嬉しくて涙が零れる。初恋の少年が成長して戻って来てくれた。もうこの恋を忘れなくていいことが嬉しい。
「……私は……人ではなくなってしまった。だから君を諦めたのに、君を忘れることができなかった。ただ助けるつもりだったのに、手放すことができずにいて…………君に一番見られたくない物を見せてしまった」
アルテュールの声は寂しく、独り呟くようで。そばにいるのに何故か遠い。
「人ではないの? 私は平気よ。腕や背中の鱗はどうなったの?」
手を伸ばし、隠しきれない鱗に触れると昔と同じ感触が指に伝わってくる。
「……私は魔女の機嫌を損ねてしまった。常に魔女の怒りを忘れることがないようにと、服で隠せない場所へと呪いが移されたんだ。……昔に戻ったみたいだな。変わってしまったのは私だけか」
自嘲を含む笑みが痛々しくて、胸が痛い。
「アルテュール……顔を見せて」
私の懇願にアルテュールは顔を隠していた手を降ろし、深く溜息を吐く。
「この顔は恐ろしいだ……ろ……」
黒い鱗に覆われた目元にそっと口づけると、アルテュールが驚きで絶句した。私は構わず、反対側の目元にも口づける。柔らかいのに固い、不思議な感触に笑いながら涙が零れる。
「イヴェット?」
「平気って言っているでしょう?」
青い蛇の瞳と見つめ合うと、私の涙がアルテュールの頬を濡らしていく。人ではない瞳も怖くない。
「もう会えないって思っていたの。諦めなければいけないのに、諦めることができなかったの」
「私も同じだ。忘れなければと思っていたのに、忘れることはできなかった」
固く抱きしめ合った後、アルテュールが半身を起こした。
「部屋に戻ろう。空気が冷えてきた」
何か呪文を呟いて、微笑むアルテュールが私の涙を指で拭う。
「戻る前に仮面を探さなければ」
二人で立ち上がり、周囲を見回すと仮面が落ちていた。拾い上げた仮面をまた付けようとする手を止める。
「仮面は無くても平気よ?」
「ノーマやマリーが見たら驚くだろう?」
マリーには以前外れかけた所を見られたらしい。鱗の端だけで、蛇の目を見られなくて良かったとアルテュールが笑う。
「邪魔ではないの?」
「七年以上着けているから、もう慣れた」
仮面を着けたアルテュールは、私の髪や服に着いた土を手で払った。倒れた梯子を起こし、壁際にあった肩掛け鞄を持って私に手を差し伸べる。
「戻って着替えよう」
「はい」
手を繋いで歩きながら、ときめきが止まらない。ロブの思い出がアルテュールに入れ替わってしまうと、戸惑うことがなくなったことが嬉しい。
〝時戻りの衣〟を織り上げて、アルテュールに掛けられた呪いを解きたい。私の心は、未来に光を見出し始めていた。
◆
着替えた後、女主人の部屋で長椅子に並んで座りながら花茶を飲む。再会の喜びが私の心を占めていても、アルテュールにとっては隠していた顔を見られたことを恥ずかしく思っているらしい。いろいろを質問することはやめて、この喜びに浸ることにした。
「イヴェットは梯子に登って何をしていたんだ? 見た時は、心臓が潰れそうなくらい驚いた。声を掛けて驚かせることもできないし、ずっと下で待っていたんだ」
私が糸を集めている間、アルテュールは梯子の下で心配していたらしい。全然気が付かなかった。
「……蜘蛛の糸をもらっていたの」
「蜘蛛の糸?」
糸巻きに巻いた蜘蛛の糸を見せると、アルテュールが苦笑する。
「ああ、そうか、あの白い月の隠し扉にあった糸はやっぱり蜘蛛の糸だったのか。だからって、危ないことはしないで欲しいな。せめて私がいる時にして欲しい」
「最初は三階の部屋にいる蜘蛛の巣をもらっていたのだけれど、続けてもらうのは気が引けてしまって」
「そうか……餌をやる替わりに巣をもらうのはどうだ? あとは……庭にある小屋にも蜘蛛の巣があるな。……蜘蛛の糸を織ったら、どんな布ができるんだろうな」
アルテュールの笑顔にどきりとした。まだ月の光を糸に紡げるかどうかわからないから〝時戻りの衣〟が織り上がるまで、秘密にしておいた方がいいかもしれない。
「こんなに綺麗な糸なんですもの。きっと美しい布が出来上がるわ」
「そうか。楽しみだな」
笑顔がこれまでより明るく感じる。アルテュールがチョコレートを摘まみ上げ、私の口元に運ぶ。
「……夕食が……」
「一粒くらいは大丈夫だろう? イヴェットはもっと食べていい」
口の中に広がる甘味が、いつもより甘い気がして仕方ない。お返しをしようとチョコレートを摘まんで、アルテュールの口元へと運ぶ。
「え?」
アルテュールの耳が真っ赤に染まっていくのを見ると、私も恥ずかしくなってきた。チョコレートを戻そうとすると、アルテュールが勢いよく口を開く。
「あ、あ、あの……アルテュール? 指まで食べないで下さい……」
勢い余ったのかチョコレートと一緒に私の指まで口に入ってしまった。二人で顔を見合わせたまま、見つめ合う。少しして、アルテュールが動いた。
「……す、すまない」
アルテュールはチョコレートを咀嚼しながら、私の指を手巾で拭く。こういう時に、何と言えばいいのかわからない。羞恥が頬に集まっていく。
「……もしよかったら、もう一つ、食べさせてくれないか?」
「はい。もちろん」
耳を赤くしたままのアルテュールに、私は笑顔で答えた。
◆
早朝、王城へ転移するアルテュールを見送ってから私は夜空の部屋へと入った。壁際の大きな籠には、集めた蜘蛛の糸が巻かれた糸巻きが入っている。沢山あった糸巻きをすべて使ってしまいそうなので、紡いでみようと思う。
繭糸と細さは似ているから、数本を撚り合わせた方がいいのだろうか。蜘蛛の糸を指で引っ張ると繭糸よりも丈夫だと感じる。まずは二本の糸巻きから糸を取り、糸紡ぎ機の糸巻きへと結ぶ。
「女神様、どうか上手く紡げますように見守って下さい」
息を吸いこんで心と姿勢を整える。糸車を回す板を踏むと、からからと心地よい音が部屋に響き渡る。
右手の指で糸を紡いでも何故か夢で見たような糸にはならない。もっと多くの糸を使わなければならないのかと思った時に気が付いた。
そうだ。蜘蛛の糸を紡ぐのではなく、月の光――愛を紡ぐのが目的だった。
一旦糸車を止めて、目を閉じる。紡ぐのはどんな愛でも良いと女神は仰っていた。ロブへの愛、そしてアルテュールへの愛を紡ぎたい。
青い瞳は蛇の瞳になってしまっても、その優しさは変わっていない。好きと思う気持ちが深くなっているのを自覚している。
アルテュールの愛人になる覚悟は出来ても、王子の愛人になる覚悟は出来ていない。好きと口にしてしまえば、その境界を超えてしまいそうで怖いと思っている自分がいる。……複雑に揺れ動く自分の心から、愛だけを紡ぐことは難しいかもしれない。
「失敗してもやり直せる。成功するまでやり直せばいいのよ」
ロブとアルテュールの笑顔を思い浮かべながら、私は再び糸を紡ぎ始めた。
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