第55話 豊後佐伯の石川康長夫妻
同日申の刻。
複雑に入り組む海岸を巧みにぬって進んだ船はやがて豊後佐伯の湊に到着した。
前松本藩主・石川玄蕃頭康長の配流地は、前方に海を抱き、後方に山を背負う、小さな城下町だった。東側には魚介類の豊富な海岸線が広がり、内陸部は
――佐伯の殿さま、浦で保つ。
俗謡に謳われるほど、海の幸が豊富な土地柄だった。
佐伯城そのものは意外に新しく、完成したのは慶長11年(1606)だそうだから、わずか8年前のこと。全体に小ぶりな印象で、素朴な三重の天守はお世辞にも立派とは言いがたかった。父・数正の遺志を継いだ康長が、豊臣流城郭建築美の極致を追求した五重六階の松本城の天守に比すれば、どうしても見劣りがする。
それに……。
肌にまとわりつく湿気の不快さといったらどうだろう。
1年中カラッと爽やかに晴れ渡る松本から、気候、文化、風土のまったく異なる南方の僻遠の地に流されてきた康長一家の零落を、志乃は肌身に沁みて実感した。
――幽閉暮らしは、どんなにかご不自由でいらっしゃるだろう……。
道々、しきりに案じられてならなかったが、身柄を託された毛利伊勢守高政さまの内密なご配慮により、海産物問屋が目立つ城下の袋小路に、意外に小ざっぱりとした隠居屋敷を与えられているのを見て、ひとまず安心した。
玄関先に、南国らしい
その太い幹のかげからヒョコッとすがたを見せた中年男は……。
だれあろう、自ら志願して配流先に随行した伴三左衛門だった。
全身が
「どこかで見かけたと思えば、そなたはたしか……」
言いさしたままの自分に歯がゆがっているので、
「下女の志乃にございます」
こちらから名乗ってやると、伴三左衛門はニッと真っ白な歯並びを見せた。
「なんと! これはなつかしい。こんな最果ての地で松本の人に再会できるとは、拙者、思いもよりませなんだ。いったい全体、いかなる仕儀でござりますか?!」
しきりに不思議がっているので、志乃はかいつまんで説明してやった。
「ふむ。かの一件の真相探索の旅を仰せつかったとな? それはまた、とうに世間から忘れ去られたものと諦めておった拙者どもにとっては、思うても見なかった行慶じゃ。お殿さまも、さぞやお喜びになるであろう。ささ、こちらへ参られよ」
通された奥の部屋に、ひときわ老けこんだ康長が人のかたちをした置き物のようにちんまりと座していた。かたわらに同年輩の老女が、これまた、一寸法師の魔法でもかけられたように萎んで座っている。
ずっと江戸屋敷にお住まいだった、奥方の文月さまにちがいない。
優れてご聡明とうかがっていたが、いまは眸に光を宿しておられぬ。
観察眼にすぐれた諏訪巫の志乃は、ひと目で老夫婦の現状を見てとった。
伴三左衛門が志乃と山吹大夫を紹介すると、老夫婦の目に流星が走った。
「志乃か。覚えておるとも。わしの部屋の壁やら天井裏に潜んでおったであろう」
「やや、ご存知でしたか。いやはや、まことにもって恐縮至極にございます」
「よいよい。同じ外様の朋輩の差し金であろうと大方の見当をつけておった。上野沼田の伊豆守どのがあちこちの城に放たれた忍については、奥も承知であったな」
康長は磊落な調子で文月に同意を求めた。
「江戸屋敷にいるころ、わが殿の御意により、伊豆守さまと頻繁に書状を交わしておりました。ご承知のとおり伊豆守さまの奥方さまは大御所さまのご養女につき、家族とはいえ内々に打ち明けられぬ事柄をひそかにうかがうこともございました」
――もしや、のどに鈴を仕込んでおられるのか?
一瞬、錯覚するような美しい声で答えた文月は、藤鼠色の小袖の袂で品のいい口もとを覆い、コロコロと娘のように笑ってみせる。
よかった、冗談を口にされる余裕がおありになる。
当初はともかく、少なくとも現在は、どん底のご不幸から脱け出されたのだ。
志乃は胸を
「ま、ご覧のとおりのありさまでな。俗にいう尾羽打ち枯らしたともなんともかんとも、どこをどう押してみても、むろん引いてみたとて、どうにもこうにも武家としての体裁の取り繕いようがない体たらくじゃわ。なれど、せっかく遠い信濃からまいってくれたのじゃ、せいぜい、ゆっくり南国の気を楽しんで行くがよい」
なにもかも失っていっそ吹っきれたのか、康長はむかしより鷹揚になっていた。
「そうしなされそうしなされ。豊予海峡をひかえた佐伯で獲れる魚はな、それこそ頬っぺたが落っこちるほどの絶品につき、海を持たぬ国の者にはさぞかし珍しかろうて。たっぷりと海の幸を堪能していかれるがよい」妻の文月も勧めてくれた。
そのとき、黙って横に控えていた伴三左衛門が、コホンと咳払いをした。
「魚介はあとのお楽しみとして、ご両人の訪問の目的をまずうかがいましょう」
康長も文月も言われて初めて気づいたというように顔を見合わせ、「いやはや、さようであったな。まさかのことに旧主の落ち延び先に物見遊山でもあるまいて」
「まったく、うっかりしておりましたね」ふたり揃ってお道化た表情をつくった。
伴三左衛門にうながされた志乃と山吹大夫は、
――大久保長安事件。
に関わる探索の一部始終をあらためて説明した。
最後まで聞き終えた康長の首が、とつぜんカクンと折れた。
かたわらで妻の文月もいまにも消え入りそうになっている。
先刻まで老夫婦を包んでいた南国の気は、影もかたちもなく雲散霧消していた。
いつまで待っても顔を上げない老夫婦に代わり、伴三左衛門が重い口を開いた。
「実は……つい先だって、千都姫さまがお亡くなりになりまして……」
――えっ、まさか! では、先夜のあれは正夢だったのか。
志乃は息を呑んだ。
千都姫の化身と思われる白い金蛇のご託宣から始まった今回の探索である。
――なのに、肝心の千都姫さまが、すでにこの世の方でないとは……。
「最愛のご夫君・藤十郎さまを極刑で奪われて以来、鬱々とした日々を送って来られた千都姫さまは、3月の朝、懐剣で喉を突いてご夫君のもとに旅立たれました。白羽二重の裾をきつく腰紐で結わえた、凛々しいおすがたのお傷ましさは……」
伴三左衛門の語尾が涙にむせぶと、康長も文月もワッとばかりに慟哭した。
――逆縁の悲しみ……。
志乃も嗚咽を堪えきれない。
日頃は冷静沈着な山吹大夫も、膝の上の拳を握りしめ、肩を波打たせている。
ひとしきりすすり泣いた康長は、だれにともなく陳謝するようにつぶやいた。
「すべてはわしの罪障じゃ。いまさら、いかように後悔してもしきれぬが、なんと愚かな父であったことか。塗炭の苦しみの末に自決した姫には、いくら詫びても詫びきれぬ。千都姫よ、許してくれ。無能な父を、どうか、どうか堪忍しておくれ」
鬼気迫る哀願に、志乃は全身を粟立てた。
「いささか言い訳めきますけれど、あの縁談には、大御所さまから強いご要請があったのです、断りきれないほどの。むろん、わたくしたちとて異存はありませんでしたが。なにしろお相手が、いまをときめく石見守さまのご嫡男でしたからね」
しとどの涙に濡れた目がハッとするほど艶めかしい。
――それに、この一所懸命さ、健気さ、高潔さといったらどうだろう。
康長が側室をもたなかった理由が、芯から納得できたような気がする。
聡明な文月の美しさ、眩さ、神々しさに、志乃は陶然と見惚れていた。
「さようであったか、千都姫の化身が天空を飛んで、はるか松本までまいったか。いたって動物好きであったゆえ、みなからきらわれがちな金蛇に変身したのも首肯できる。千都姫の化身の託宣を尊重して、面倒な探索を実行してくれた志乃どの、また快く同行してくれた山吹大夫どのの天晴れな心掛け、まことに大儀であった」
気を取り直した康長は、心からの礼を述べてくれた。
「彼岸に渡った千都もさぞ喜んでおりましょう。親の口から申すのもなんですが、弱い者や苦しんでいる者を見ると放っておけぬ、義に富んだ娘でございました」
文月の手放しの娘自慢が、志乃には愛しく思われてならない。
――心ある衆は、音にも聞かれるがよい。ここにもひと組、並みの
世間に向かって叫びたくなった。
いくぶんホッとした面持ちの伴三左衛門が、補足的な説明を付け加えてくれた。
「お殿さまの弟君にあたられる肥後守(康勝)さまと紀伊守(康次)さまも、それぞれのご家族とご一緒に、このすぐ近所のお屋敷で、そろってお健やかにお暮らしになっていらっしゃいます。われら家臣一同は半農半兵と申しますか、昼間は鍬を揮った手で夜は剣術を忘れぬように刀を握る、さような日々を送っております」
手の
「さように気の毒がっていただかずとも大丈夫でございますよ。こう見えて拙者、野良仕事が性に合っておりますし、手先の器用な朋輩は、鮨職人に転身中にございます。やがては当地の産業の一翼でも担えればと、さような夢も抱いております」
――流刑地の産業の勃興を図る……。
まさに、転んでもただでは起きぬ、自立心に富んだ信濃武士の天晴れな心意気。
志乃の胸はふたたび熱くなった。家康がもぐりこませた上野弥兵衛こと忍の鳶丸にあやつられ、渡辺金内筆頭家老と世代間争いを起こしたかつての伴三左衛門は、目の前でほほ笑む潮やけした男の、どこにも見出せなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます