第54話 豊予海峡の鯨と海豚
4月2日寅の刻。
志乃と山吹大夫、猿の三吉の一行は、一路、豊後佐伯へと旅立った。
「うれしいね、おまえさん。兄上さまのお墨付きをいただいたから、天下晴れて堂々たる夫婦になれたね」喜びを口にしながら、志乃はアッと叫び声をあげた。
「つい早とちりしちまったけど、本当によかったの? おまえさん。わたくしなんぞと一緒になっちまってさぁ。よく考えたら、おまえさんの気持ちを、たしかめていなかったよねぇ」照れ臭さに一抹の不安も手伝い、わざと蓮っ葉に問うてみた。
すると、うれしいことに、しんみりとした口調で、山吹大夫が答えてくれた。
「前に話したとおり、いずこの馬の骨ともわからぬ拙者は、どこへ行ってもだれと会うても地に足が着かぬ、不安な心持ちで生きてまいったが、志乃どのに巡り会うて、ようやくひとりの人間としての自分を確信できたような気がしておるのじゃ」
山吹大夫の真実に打たれた志乃は、ドッとばかりに涙をあふれさせた。
「わたくしとて同じでございます。以前にお話いたしましたとおり、生まれついて父親の顔も知らず、母親には見放されて、生きる術を見失った日々を送ってまいりました。松本での山吹大夫さまとの邂逅は、まさに天恵だったと思っております」
乾いた風が茫々と吹き渡る関東平野を行くふたりは、熱い目を絡ませ合った。
――同行3人。
の3分の1を占める猿の三吉は、志乃への悋気を放棄することにしたらしい。
――馬鹿馬鹿しくてやってらんないよ。
とばかりにポリポリと首のうしろを掻いてみたり、股のあたりの蚤をつかまえてみたり、三吉を狙い撃ちするかのように糞を落としていく烏や、はるか頭上を行き過ぎる犬や猫のかたちの雲に向かい、黄色い歯を剥き出して威嚇したりしている。
上野の高崎、安中、松井田と中山道を進み、碓氷峠を過ぎると軽井沢である。
飯盛女がにぎやかに客を引く追分宿から岩村田城下へ出て、松並木の笠取峠を越えると望月宿で、難所の和田峠を抜けて下諏訪、塩尻宿と進むと、木曽路に入る。
――奈良井千軒。
の奈良井宿から、木曽街道随一の難所と恐れられる鳥居峠を越えて藪原宿へ。
そのむかし、木曽義仲が挙兵した宮ノ越宿から御嶽山の入口にあたる福島宿へ。
寝覚ノ床で有名な上松宿から妻籠、馬籠宿を経ると、中津川宿で美濃に入る。
御嶽、鵜沼、赤坂、関ヶ原、鳥居本、守山、草津、大津へと平坦な道を歩いて、沼田から6日がかりで大坂へ着いた一行は、4月8日辰の刻、湊から船に乗った。
一見、穏やかな海底に強靭な殺傷力の凶器を隠し持っていそうな鯨海(日本海)の様相と異なり、こたびの海は、波静かで、おっとりのんびりした内海である。
育ちのいい若君のように混じりけのない
「なんだかさあ、眠くなっちまいそうに凪いだ海だよねえ、おまえさん」
潮風に
「おおよ。海というより、でっけえ水溜りみてえなもんだな」
「かように静かな海に、よそでも出会った経験がおありかえ? おまえさん」
退屈しのぎに志乃が問えば、山吹大夫は即座に答えて来る。
「さりともよ。九州は肥前・肥後に広がる有明海がまさに、これから経巡って行く和泉灘、播磨灘、備後灘、水島灘、安芸灘、それに
「さすがだねえ、おまえさん」
恋しい男の博識ぶりを、志乃は惚れ惚れと称賛した。
穏やかな海面を滑るように進んだ船が、九州・豊後と四国・伊予に挟まれた
「ちょっと見て見て、おまえさん、ほら、あそこ。山みたいにでっかい魚がさあ、ピュッと潮を噴いているよ。すごいねえ、初めて見たよ」志乃が騒ぎ立てると、
――しいっ!
山吹大夫は女のように赤い口に指を立てて、「騒々しく言うでない。このあたりでは、ごく当たり前の光景じゃ」周囲をはばかるようにして、小声でたしなめた。
志乃にとって初めての内海の旅は、夢心地のうちに過ぎて行った。
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