第38話 山之神村の村長の妻

 





 3月11日午の刻。

 往路を西へもどった志乃は、甲斐国の中央部にあたる山之神村に着いた。


 信松尼の話でもうかがわれるとおり、稀代の艶福家として知られる大久保長安は、正室と継室、側室に7男2女を産ませていた。


 嫡男の藤十郎以下7人の息子たちは、父親の仕事を手伝う、他家へ養子に行く、僧籍に入るなどしていた。ふたりの姉妹のうち、長女・郁代は、旗本・服部正重(のちの半蔵)に嫁いでいた。


 一方、次女・波留はいささか変わり種だったらしく、家業の武家を嫌い、相思相愛の幼馴染み、三井吉正(家康の側室・阿牟須あむすの方の長男)と、山之神村で所帯をもっていた。亭主の吉正は徳のある人物として慕われ、村長むらおさをつとめているとも聞き及んでいた。


 重畳と峰を連ねる甲斐の山々をいくつも越えた先に太陽の隠れ処のようにポツンと開けた山之神村は、まさに「無何有むかうさと」と呼ばれるにふさわしい、穏やかに鄙びた小村だった。


 豊饒な土の香が漂う田畑で野良稼ぎの百姓たちも、路傍で遊ぶ子どもらも、日向ぼっこの犬や猫から池の水鳥たちまでいちように満ち足りた表情をしているのは、地方仕置きが善政を敷いている証左と拝察された。


 その風景に明々と染められ、豊かで温かな気持ちになった志乃は、世間から偉大と称された父親の生き方に敢然と反旗を翻した骨のある娘に、早く会ってみたくてならなくなった。


 通りすがりの百姓から尊敬をこめて教えてもらった村長の家は、小高い丘のうえに建つ簡素ながら渋い品格のある本棟造りで、遠目にも手入れのゆき届いた青々とした生垣に囲まれていた。


 武家屋敷のようにおもむきのある門をくぐり、日差しに曝された目にはいちだんと暗い玄関先で声をかけると、幼い子どもたちが数人、奥からドドドッとばかりに飛び出してきた。


「おっかさぁん、だれか来たごいす」

「へっちゅもねえ、だれかじゃなくてどなたかじゃん」

「ほんでもって、ようおいでなってと言うんだらよ」


 幼い甲州訛りで口々に叫ぶ。

 それを追うようにして、純朴そうな田舎娘が出てきた。

 志乃があらためて来意を告げると、女中は軽く会釈して奥へ引っ込んだ。


 しばらくして、

「おっかさん、早く、早くってば」

 子どもに急き立てられて出て来た女は、歳の頃にして30前後というところか。

 素肌に白粉も飾らず、プクッと愛らしく膨らんだくちびるにも紅の痕跡がない。


 だが、産み立ての卵のように清潔な印象の女で、所作や口上の隅々にまで、どことなく奥ゆかしい風情が滲むのはさすがだった。若い身空で親に楯突いたというので、とんでもない跳ね返りを想像していたが、実際はその逆だった。


 深山の湖のような村長夫人に気圧されながら、志乃が訪問の目的を告げると、

「せっかくお出でくださいましたが、あいにく夫は村の寄合に出かけていやして……」心底から気の毒がってくれた。


「では、せめて、奥さまのお気持ちをおうかがいしとうございます」

 厚かましい志乃の請いに、大久保長安の末娘にあたる波留は、都びた八王子から甲斐の僻村へ移って来た当時の心境を、いたって率直に吐露してくれた。


「いいえ、親に刃向かうとか、刀を捨てて野に下るとか、さように大それた気持ちではありませんでした。ただ、満ち足りたまちの暮らしより、土の匂いの方が性に合っていたのですよね、夫もわたくしも」


 真っ直ぐに志乃を見詰めてくる目が、思わずタジタジとなるくらい澄んでいる。


「わたくしの父はたしかに、子どもの目から見ても心から尊敬できる、立派な武士でした。ただ、わたくしはちがうと思ったのです。わたくしの質は、侍の妻にふさわしくないと。立身出世、御家安泰がすべての武家社会は、わたくしたち夫婦には合いそうもありませんでした。そこで生きていく自信を見い出せなかったのです」


「なんとなくわかるような気がいたします」

 志乃も思わず真剣にうなずいていた。


「土を耕し、穀物や野菜をつくり家畜を育てる。食べるもの着るもの、雨露を凌ぐ家。この身ひとつが、そして家族が生きるためのことごとくをわが手で生み出す暮らしこそ、わたくしたち夫婦の生涯を託するに足ると、さように思われたのです」


 遠い目をして訥々と語る波留の膝に、幼子たちがわれ先にまとわりつく。どの子の着物も洗い張りし立てのように清潔で、小さな綻びも丹念に繕われていた。

 

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