第37話 信松尼の大久保長安語り





 

 志乃という聞き役を得た信松尼の幸松自慢は、まだまだつづく。


「幸松さまのご聡明なことといったら、まさに一を聞いて十を悟られるのですよ。武術にも優れて秀でておられ、近所の子らとのチャンバラごっこでも、ただの一度も負けたことがありません。そういえば、ふふふ、先日もかような出来事が……」


 形のいい小鼻をピクピクさせていた信松尼はふと照れ臭そうな笑みを浮かべた。


「まあ、わたくしとしたことが、かようなところで……。さあ、どうぞ」

 初対面の志乃を、気さくに庵に招き入れてくれた。

 こぢんまりした庵内はさっぱりと片づき、信松尼の潔癖な性格がうかがわれる。


 いまを去る30年ほど前、ともに甲斐から落ち延びて来た3人の姫君たちのうち最年長の小督姫は育ての親の信松尼と同じく仏門の道を選んだが、病を得た先年、29歳で夭逝した。残された貞姫と香具姫はそれぞれ良縁を得て、いまは穏やかに暮らしているという。


 年頃の姪たちとにぎやかに暮らした時代を経て、現在は独り住まいの信松尼は、自ら鍬をふるって荒地を開墾し、労働で節くれだった手指を隠そうともせずに、「どうぞお召し上がりくださいませ」優雅に煎じた茶を勧めてくれた。


 ほどよい湯加減で、ほんのり甘い。


 ――美味しい!


 お茶の玉を舌で転がすように味わいながら志乃は、思うところあって生娘を通して来られたという小柄な尼の激動の来し方を、拝察してみずにはいられなかった。


 有為転変は戦国の世の常ではあるが、信松尼の場合は、とりわけ特異だった。

 永禄10年(1657)、松姫が7歳のとき、織田信長の嫡男・信忠(11歳、奇妙丸)と婚約したが、元亀3年(1572)の「三方ヶ原の戦い」を機に、自然消滅となった。


 その翌年、遠征先で父・信玄が死去した。500余年つづいた武田家は異母兄・勝頼が継いだが、天正10年(1582)、かつて松姫の婚約者だった織田信忠軍に攻めこまれた同腹兄・仁科盛信五郎が高遠城で討ち死にし、第20代藩主・勝頼自身も天目山で自刃して、ここに甲斐の名門・武田家は完全に滅亡した。


 雄々しく果てた仁科盛信の忘れ形見となった幼い姪姫たちの手を引き、重畳たる山河を越え、ようやっと武蔵八王子へ逃れた松姫は、剃髪して信松尼を名乗った。養蚕や絹織物の製造、寺子屋で読み書きを教えるなどして姪姫たちを養った……。


 思考から醒めて、ふと顔を上げると、信松尼が心配そうに志乃を見ていた。

 品格のあるやさしげなまなじりに、自然な加齢の皺が無数に刻まれている。


「さて、なにをお話いたしましょうか」

「お差し支えなければ、石見守さまにまつわる逸話などを……」


「お心根のやさしい方でしたよ。幼い姪たちにはもちろん、拙尼宅の犬や猫や鶏にまでお声をおかけくださって。大人も子どもも動物も、みんながあの方に懐いておりましたよ」あらかじめ用意していたように、信松尼はスラスラ淀みなく答えた。


 ――はい、模範解答の一丁上がり!


 志乃は意地悪な防御線を素早く張った。


 こちらから押しかけておいて、まことに恐縮ではあるが、そんなきれいごとでは「八王子千人同心」たちの「いっせい褒め」と、少しも変わりがないではないか。


 人間、だれしも完全無欠の満点ではないだろう。

 人目に立つ美質のかげに、愚かしさや狡さ、弱さなどの裏があるのが自然だし、そうであってこそ、だれもが心から共感できる人間味が生まれるのではないのか。

 若輩が生意気ではあるが、諏訪巫としての率直な人間観察だった。


「でも……」

 志乃の心中を見越したように信松尼が言い継ぐ。


「だれにも平等にやさしいといっても、若い女子にことのほか忠実まめになりがちな傾向は、正直、わたくしとして当惑せぬでもありませんでしたよ。なにしろ、あの立派なご面相でいらっしゃいますからねえ。ああ見えて、石見守さまはご自身のお顔やおすがたに、絶対的な自信をお持ちでいらっしゃいましたもの」


 ――ドッキン!


 志乃の心ノ臓が音を立てて動き、頬もカッと熱くなった。

 いい男と聞いただけの過剰反応が、われながら浅ましい。


「それほどの男前でいらしたのですか? 石見守さまは」

 狼狽えを気取られないように、志乃は忙しく訊ねる。


「それはもう……。若い女子と見れば、だれかれかまわずにお口説きになるので、なかにはついその気になる娘もおりまして。拙尼が寺子屋で教えておりましたのはまだ年端もゆかぬ子どもらで、男女の機微のなにかも知りませぬからねえ。お世話になっておきながらなんですが、石見守さまのあのご性癖には、ほとほと……」


 ぼかした語尾に、忌々しげな苦渋が滲んでいる。


「あの……ご無礼を重々承知のうえでおうかがいいたしますが、石見守さまが熱心に口説かれたのは、若い娘さんだけではなかったのではないでしょうか」

 果たして、信松尼は透き通るような顔を薄く染めた。


 ――やっぱり!


 厚かましく言い寄られても、明確な拒否はおできにならなかったのだ。

 旧主の姫君とはいえ、当地では一方的な庇護を受ける身だったのだから。

 いや、むしろ、うがった見方をすれば、そこに巧妙に付けこまれのかも。


 信松尼の動揺を観察した志乃は、さらに意地悪な質問をぶつけてみる。


「お辛くはありませんでしたか? いつもいつも世話になられっぱなしは……」


 果たして、信松尼はサッとばかりに気色ばんだ。

 打って変わった激しさで、志乃に食ってかかる。


「他人からの施しを庇護を、負担に思わぬ者などおりましょうや。施しというものは、行う側にとっては得も言えぬ快楽でありましょうが、受ける側にとっては苦痛以外のなにものでもありません。恵まれるたび卑屈の刻印を押されるような……」


 柳葉のような眉が吊り上がり、忿怒も露わな般若の形相になっている。


「出過ぎたことを申し上げまして、まことに申し訳ございません」


 志乃が詫びると、年長の信松尼はすぐに冷静な口調にもどった。


「ときは魔物でございましょう。石見守さまのご心情も、時間の経過とともに少しずつ変わってゆかれたのでございましょうね。ごくたまにですが、ゾッとするほど冷淡な目を投げかけられる瞬間があったことを、いまさらながらに思い出します。そういうときはきっと、拙尼の感謝の込め方が不足していたのだろうと思います」


 ――おっし、そう来なくっちゃ!


 ついに本音を聞き出せ得た喜びに、志乃は拳を握った。

 ふと気づけば、穏やかな春の日も西に傾き始めている。


「あら、もうこんな……。つい長居をいたしました」

 そそくさと暇乞いを述べると、信松尼の口調は急に湿っぽくなった。


「もどれる故郷とてない拙尼にとって、一期一会の邂逅こそ、この世に生きるよすがそのもの。こちらへお出での節は、どうか気軽にお立ち寄りください」


 初見の自分にまで名残を惜しんでくれる信松尼の孤独が痛いほど伝わって来る。


「お言葉に甘えさせていただきまして、そのときは必ずや……」


 小腰を屈めた志乃の目の端を、黒いものが素早く掠め過ぎた。


 ――殺気!


 得体の知れぬ気配は、武蔵八王子の柑子色こうじいろの夕焼けに滲んだ。

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