第146話 唇を重ねる二人

「…小夜さんは、荒れようと思ったことはありませんか?」


「…何で…、そんなこと訊くの?」


 背中を向けたまま問い返す小夜の声は静かで穏やかだった。


「…ぼくは、あるからです」


 自身の経験を零央は語った。

 きっかけは、母親の死だった。突然の母親の死は零央を打ちのめした。思いがけない出来事に不意に足をすくわれたという思い、近しく大切な人物の喪失という現実は零央の内面を激しく揺さぶった。ささくれ立つ気分のままに夜の街を歩き回り、過程で荒事に巻き込まれる体験もした。おかげで、小夜に危機が迫った時にも瞬間的に身体が動いた。女性と深く関わったのもこの時だが、そうした話は意識的に外しながら語った。好意を抱く女性に対して過去の色恋沙汰を打ち明けられるわけもない。

 振り返ってみて気づくのは、感傷に浸っていた事実だ。あの当時、関わりを持った人間はさぞかし迷惑だったに違いない。浅薄で安っぽい感情の流れにつき合わされたのだから。救いがあるとするなら、騙したわけでもなく、力ずくで従わせたわけでもないことだろう。ただ、内実が無かった。だから、記憶の中の少女は静かでいて痛烈な言葉を投げかけ、受け止めた零央は荒れた生活に終止符を打った。


 語り終えると小夜が言った。


「…荒れてみても、しょうがないじゃん? ―あ、今のは零央くんに言ったんじゃないの。あたしに言ったの」


 慌てたように振り返る小夜の様子に零央は笑んだ。


「分かっています」


 たとえ、自分に対して言った言葉だとしても同じ態度で受け入れる。零央が思っていると小夜が続けた。


「荒れてみたってさ、いいことないんだよ。やることが無軌道になっちゃうからさ、人から疎まれたり、ポリさんに睨まれたり。で、最後に自分が悲しくなるの」


「他の人ではなくて?」


 小夜が頷く。


「どうしてこんなことしかできないんだろう? って思って、悲しくなるの」


 小夜の言葉を聞き、零央は改めて好ましく思った。気づいた時には、再度告白していた。


「ぼくは、そんな小夜さんが好きです。これは、勘違いなんかじゃありません。小夜さんはぼくのことがお嫌いですか?」


 問われた小夜は困ったように笑った後で首を横に振り、俯いた。零央が近づいて肩に手を添えると小夜は手を押しつけて押し止めた。


「?」


 拒否されたのかと零央は思った。

 小夜は顔を上げると周囲を素早く見回し、袖を引っ張って零央を移動させると木の幹を中心にして横にずれた。居場所が変わると顔を上げて目を閉じた。不可解な行動の意味を零央は理解した。遠い喧騒は、ちょうど木を挟んで小夜の真後ろにあった。零央は改めて肩に手を添えると顔を近づけた。


 夜半、微かにざわめきを伝える空気の中、零央と小夜は静かに唇を重ねた。

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