第142話 余っている資金は活きている

「ちょっと、別のお話を伺ってもいいですか?」


「ん? はにはな?」


 匙を咥えた姿で小夜が言う。


「押し目についてなんですけど…」


「あれから何か変化でもあったのかな?」


「はい」


 遠慮がちな切り出しに反比例して零央は明確な返事をした。図星だったからだ。手掛けてから上昇に転じた銘柄は、軟化していた。陽線を何度か描いた後に緩やかな下落に入り、回復せずにいた。零央の中には迷いが生じていた。


「これはあたしの考えだからさ、万人に当てはまるわけじゃないんだけどね―」


 頷きを零央は返した。


「―買いの時は、上がってから買ったんじゃ遅いんだよね」


「押しは買わないんですか? 小夜さんは」


 今度は小夜が頷いた。


「それまでに買っとく、ってのがあたしの方針」


「なるほど」


 深く零央は納得していた。確かに逆張りで通すなら押しを買う必要はない。ナンピンを何度か繰り返せばそれで済む話だった。それに、押しで買っていては平均値が上がってしまう。


「ただ、反論するわけではありませんが、一般的には買いの機会として捉えますよね?」


「そうだね。上がってからなら、唯一のチャンスかな」


「唯一、ですか?」


「深追いすると高値掴みになるからね」


 小夜の言葉を頭の中で反芻し、しばらくしてから零央は口を開いた。


「以前、おっしゃっていましたよね? 株は上げ下げしながら上がる、と」


「言ったね」


「ピークに達するまでに、下げの局面は幾度かありますよね?」


「うん。だから?」


「それでも、買ってはいけないんですか?」


「そう言ってると高値掴みになっちゃうんだってば」


 困ったヤツだ、とでもいった風に小夜は笑い、空中で匙を振った。


「食べないと溶けるよ?」


「あ、そうですね」


 話に夢中になっていた零央は表面の溶けかかったアイスに手をつけた。


「もう一つ、いいですか?」


「いいよお」


 あんみつを平らげた小夜は鷹揚に腕を組んだ。


「今回の銘柄は買ってすぐに上がってしまったので、資金が余っていまして」


「ふんふん」


「もったいないような気がしていました、正直に言うと」


「はあ、なるほどね」


 小夜は腕をほどくとテーブルに片肘をつき、顎に手をやった。


「まだまだ甘いねえ」


「すみません」


 視線を外した零央は気まずさを紛らわすために眼に入ったあんみつに手をつけた。


「そう思うってとこが強欲なんだよねえ」


 同じ謝罪の言葉を零央はもう一度口にした。


「ま、思っただけで行動にはしてないんだから、いいんだけどね」


 小さく零央は首肯し、匙を置いて小夜を見た。


「前にも言ったの承知で、繰り返しとくよ? 資金は余ってるぐらいで丁度いいんだよ。キャッシュってのは、温存しておくのがポイントだからね。買い場が来たらいつでも動けるだろ? キャッシュそのものより、チャンスで動けるっていうその状態こそが大事。たとえばさ、さっきの押し目の話。これって、動こうかどうか考えてるってことだろ? 仮に動くとしてさ、動けるのは資金が手元にあるから。無かったら動きたくても動けないんだから、ありがたいじゃないか。そこに目をやらなきゃ」


 小夜が言葉を切り、零央はまた一つ頷いた。小夜が頷きを返す。


「もったいないって考えるのは、活きてないと思うから。でもね、一見余ってるように見えて実は活きてんだよ、その資金は。いつでも出動できるように待機してるんだからさ」


「そう捉えればいいんですね。よく分かりました」


「なら、いいよ。だからさ、普段は手持ちの資金は忘れときなって。でないと、また焦るよ」


 零央は最初の頃、信用で失敗した出来事を思い出していた。


「はい」


 素直に返事ができた。小夜が満足そうに笑い、脇の荷物に手をかけた。


「ラウンドケーキ、行くよ。それ、やっつけちゃって」


 慌てて零央はあんみつをかき込んだ。

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