第六章 大引け

第130話 犬吠埼の二人

      

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 零央は潮風に吹かれて海辺に立っていた。

 冷たく湿り気を帯びた風が顔面に吹きつける。前髪が強引に押し退けられて形を変える。しかめた顔の鼻腔から注意深く空気を取り入れる度に潮の香りがする。


 寒冷な気候向きの服装をしていた。茶系統の色のショートブーツが岩場を覆うように生える緑を踏み締めている。下は濃い青のパンツだ。上には厚手のダッフルコートを身につけていた。残念ながら、あまり役に立っていない。低気温を明確に意識した重ね着も海を見るには装備不足だった。岩場を踏む足元も冷たい。ビニールバッグを下げる厚い毛糸の手袋をした手も冷たい。チェックのマフラーを巻いて固めた首筋も冷たい。寒風が容赦なく吹きつける度に服の表面から冷気が染み込んできて零央を震わせた。


 場所は犬吠埼だった。千葉県のマスコットキャラクターの耳の先に当たる場所だ、と言っても地元の人間にしか通じない。

 立っている岩の地面は岬の先端近くに位置し、本来は人が行くことができない場所だ。灯台は零央の背後にあり、周辺に整備されている遊歩道は柵によって岬と断絶している。岬の左へ抜ける道は大きく迂回して岩浜に通じている。しかし、遠く断崖が見えるに過ぎず、行き着くことはできない。到達経路は秘密だ。 


 海に向かって零央は立っている。岬の先には岩礁があり、打ち寄せる白い波が幾つもの岩を覆い隠しては砕け、戯れている。風が強いために波も高く、荒い。岬に到着して目にした灯台の白さを思い出し、零央は波の色と重ねていた。海に向かって真っ直ぐに立つと視界を遮る物は無く、水平線が広がる。雨も予報されていたほどの天候なので黒ずんだ曇り空なのが残念だ。もう午後も半ばを過ぎていることもあり、陽の光も弱りがちだった。


 湿った寒さと突き抜けた視界の中に小夜の背中もあった。

 地面の緑は岬の大半を覆っている。周辺部は海岸線に沿うように広く岩が剥き出しになっており、小夜はそこに立っていた。冷たく強い風になぶられて長い髪の毛もひどく乱れながらなびいている。服装は零央とは真反対に軽装に見える。


 両端の丈が長いレトロなスタイルのフレアスカートをはいていた。カラーはテラコッタだ。髪の毛同様、強く風に吹かれて形を変えている。ヒールのあるショートブーツを合わせ、上にはウエストを絞ったスタイルのジャケットを着ていた。艶の強調された布地には模様は無く、二の腕や胸元に縦に入ったジッパーや斜めに口の走る横のポケットがアクセントになっていた。色が黒く薄手のため、一見皮のジャケットのように見える。スリムな小夜にはよく似合っていた。先程購入したばかりの品で、スカートに合わせたわけではないために全体としてはちぐはぐな印象になっていた。手には薄い手袋をしている。


 待ち合わせをした時は、襟や袖口、裾をファーで縁取ったグレーがかったジャケットを着ており、首元にはライトブラウンのスヌードがあった。どちらも今は零央の持つショップのロゴが印刷されたビニールバッグに入っている。良弦からもらったという小夜愛用の黒いバッグも一緒だった。


 小夜と会うのは先週の土曜日以来だった。いつもなら次にどこへ行くかは前日に取り決めているのだが、小夜の家であった出来事のために忘れていたのだ。帰宅してから気づいたものの、こちらから電話をするのも憚られ、そのままになっていた。気分がすぐれない、との理由で小夜から取りやめの電話をもらったのが先週の日曜当日の朝のことだ。零央は了承した。そんな経緯を経ての今日だった。

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