第93話 相王寺朱音

「ひとまず挨拶してきます」


 小夜から返事が返る間もなく、零央は目当ての人物を見つけて駆け寄っていた。その人物はブースの前を通る来場者にビラを配っていた。


「朱音さん、おはようございます」


「おはよう、零央くん。お早いお出ましね」


 相王寺朱音は、にこやかに挨拶を返した。手にしていたビラの束を手近な台の上に置くと零央に向き直った。

 朱音は毛先のウェーブした髪を肩まで伸ばしていた。大きめな茶色のセルの眼鏡をかけており、レンズの奥の瞳の表情は優しかった。それでいて湛える光は鮮やかだ。穏やかな雰囲気をまとった知的な女性だった。服装は白い半袖のブラウスにグレーの膝丈のスカートを合わせている。ブラウスは胸元に控えめな装飾が施してあるタイプだ。足元はフラットなヒールのパンプスだった。


 出版取次の会社に勤める朱音は、筋金入りの本好きだった。学生時代に欲しい本が容易に手に入らない状況に不満を抱き、改革のためには卸の変革が必要と考えて就職先を決めるような人間だった。その一方で考え方は柔軟で、新規事業のための社内公募にも自ら手を上げていた。一応の上役はいるものの重要事項にも決定権を行使できる朱音は新規事業における実質的な責任者だった。

 零央がアイデアを提供したサービスはシステムの開発を外部委託しており、朱音は委託業者との橋渡し役でもあった。零央とは個別の打ち合わせや各種のミーティングでも常に顔を合わせる間柄であり、電話でも頻繁に話をしていた。親しさが呼び方にも現れていた。


「あれ? スタッフって朱音さんだけですか?」


「もう一人いるんだけど、遅れてるの」


 人気のないブースを覗き込みながら言う零央に朱音は苦笑してみせた。


「おかげで準備も一人でやる羽目になったわ」


「大変だったでしょう?」


「そうでも。ウチはとりあえずの出展だし」


 ブースの内部に目をやる朱音につられて零央も再度目を向けた。

 朱音が取り仕切っているブースはささやかなものだった。樹脂製のパーティションで区切られたスペースには三方に長机が置かれ、向かって右側の机にサービスの概要を説明するためのパンフレットやリーフレットが三種類ほど積まれていた。奥にはデモンストレーション用のノートパソコンが一台置いてあり、左側にはサービスの流れをイラストを交えて示した概略図が掲げられている。極めて簡略な備えだった。


「もうある程度の実績は出てるでしょ? 殊更宣伝する気は―」


 ブースから視線を戻した朱音は、その時初めて小夜に気づいたようだった。顔を傾けて零央の背後を見やった。


「お連れ様? 彼女?」


 手にしていた帽子を前にし、小夜が頭を下げた。


「違います。ぼくの先生です」


「?」


 怪訝な顔をする朱音の話をそらすため、零央は別の話を持ち出した。


「それより、この前言っていた件はどうなりました? もう少しで千人でしたよね?」


「そうなの! ちょうど、今週超えたのよ!」


「それは凄い!」


 朱音共々零央は顔を輝かせた。

 零央の考え出したサービスでは小額ながら著作権者にも利益を還元するシステムになっていた。ただし、支払いや権利関係の確認のために著作権者からの申し出を必須事項としている。二人が口にしたのは、その申し出の数だった。千という数字は一つの区切りとして設定していたものだ。サービスが一定の存在感を得た証だった。

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