第86話 混乱


       3


 自宅の客間に零央はいた。

 アウトレットパークに赴いた次の週の日曜日だった。早朝から雨の降り続く天候のために陽の光は薄い明るみだけを届け、ガラスの向こうの町並みは静かに煙っていた。サマーニット姿で窓辺のソファーに座る零央の前には制服姿の小夜がいた。


「うーん。今日も絶品」


 至福の笑みを浮かべる小夜は美加子手製のラズベリーパイを食していた。


「…」


 今回のデザートにもチョコレートは使われていなかった。が、そのことを零央は深く考えないようにしていた。


 …美加子さんにも何か考えがあるんだろう、きっと。


 喜んでいる小夜を前にして、零央の気持ちも和んでいた。大事なのは小夜が快い時間を過ごすことだ。零央の思考は、いつものテーマである株へと流れていった。


 投資の状況は悪くなかった。前回の小夜との材料探しでも次の銘柄について結論は出ず、新たな投資先は選定していなかった。何もしていないがために手持ちの資金は増えておらず、同時に減ってもいない。初回の経過報告以来、兄二人の状況を聞く機会がないために比較しての状況は分からない。だが、大きく引き離されたりはしていないはずだった。零央の中に焦りはなかった。


 …やっぱり、最初の投資で大きく取り戻したのが大きい。


 小さな昂りが胸に昇った。五千万という数字は大きかった。自分の資金ではないと知りながらも感情は刺激された。そして、それ以上に利益と損失のダイナミズムが零央を捉えていた。僅かな判断の差が大きな利益を生み出し、損失をも発生させる。一切の妥協を許さない市場の在り方や、その市場に対峙する緊迫感が恐ろしくもあり、また、魅かれもした。


 何だ、この世界は?


 高揚と恐れとがない交ぜになった気分を味わっていた。僅かに忌避感のようなものも混じっていたかもしれない。

 投資で味わう精神の揺らぎはあまりに刺激的だった。その落差は体感のないジェットコースターにも似ていた。むしろ心裡での出来事だからこそ、より深く内奥に刻まれるような気がした。強く惹きつけられていた。きっと、相場三昧だったという良弦もそうだったに違いない。


 …もう、離れられないな。


 胸の奥に確信めいたものがあった。静かに何かが棲みついていた。零央は、その存在に危うさも感じていた。身の破滅さえ予感させるような危うさだった。降りかかる大きな変化の予感が、そう感じさせるのかもしれなかった。


「?」


 ふと、零央は小夜の仕草に気づいた。首を傾げるようにして零央の顔を覗き込んでいる。


「まあた、何か考えてるな?」


「あっと、すみません」


「いいんだけどね」


 言いながら、小夜はまたラズベリーパイを口に運んだ。機嫌を損ねた様子はなかった。パイを飲み下すと話題を転じた。


「数磨さんて気遣いスゴいよねえ」


「はい?」


 いきなり振られた話題に零央は戸惑った。


「息子の教師役とはいえ、女子高生にハイヤーだもん。いつにない贅沢しちゃった」


「ああ。なるほど」


 零央は得心した。

 今日は朝から雨だっただめに、数磨は駅までハイヤーを差し向けていた。予報を基にして小夜には昨晩の内に電話があったという。


「しっかし、やるよねえ。お父さん、今でもモテるでしょ?」


 肯定の返事を零央はした。本人からそれらしいことをほのめかす言葉を聞いたことがあった。


「うん。分かる分かる」


 妙に上機嫌な小夜の様子に零央は不安を覚えた。


 …小夜さんて、父さんみたいな男性が好みなのかな? いや、違うよな?


 混乱していた。小夜の言動が気にかかっていた。二人の年齢があまりにかけ離れている事実が余計に混乱を生んだ。


 …でも、好意を持つだけなら年齢は関係が無く…。それ以外もかな? いや、しかし…。


 自問自答する零央の葛藤は小夜の言葉で終わった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る