第5話 名前

「名は体を表わさない、ってホントだなって思うよ。あ、これはじっちゃんの言葉ね」


「じっちゃんって、『りょうげん』さんですか?」


「そ」


 涼岩良弦は小夜の祖父だった。『りょうげん』は愛称で、正しくは『よしふさ』と読む。零央の父親の知人で、相場師だ。良弦は本来、零央が必要とした人物でもあった。既に亡くなっていたため、小夜が代わりとしてやって来た。零央は小夜の言葉が興味深かったので尋ねてみた。


「通常とは逆なんですか?」


 明確な返事と一緒に小夜は首を縦に振った。


「じっちゃんに言わせると、そうなんだよね。名前ってのはさ、名づけた人間の希望とか願望が入ってるから実際とはズレが出るんだって。人の名前だけじゃなくて、会社やなんかのもね。政党なんか真反対だ、とかってよくぶつぶつ言ってたっけ。皮肉屋だったからね」


 微笑った小夜が今度は零央に訊いた。


「零央君の名前は誰がつけたの? 何か意味深な気がする」


「父です」


 零央は即答した。父の名は桐矢数磨といった。


「零は何も無いんじゃないそうです。始まりを示しているんだと父は言いました。零は、そこから如何様にも始まる無限の象徴だと。そして、その零の中央を意味するぼくの名前は、まさに始原を表わすものなんだとも。それに、物事が盛んになって数字にゼロが増えるのはいいことだともいつか言ってました」


 小夜が皮肉に笑みを深めた。


「確かにね。…あんたはゼロを減らしたけど」


 辛辣な言葉に零央は首を落とした。言葉が出ない。

 とある事情で零央は株式投資を手がけていた。しかし、ごく最近多大な損失を出した。今日ここに小夜がいるのは、それが理由だった。ささやかな反撃として零央は小夜の服装を話題にした。


「えーと。見かけのお話が出たので、ちょっとお訊きしてもいいですか?」


「何?」


「制服のことなんですけど…」


「日曜日なのにってこと? 学生の正装ってことで勘弁しとくれよ」


「いえ。そうではなく…」


 零央が遠慮がちな口調になると、小夜は合点したような顔つきをした。


「やっぱ、違和感ある? ウチのガッコじゃ普通なんだけど。大体半々ぐらいかな。でも、別に荒れてたりはしないんだよ?」


「…そうですか」


 会話が一段落したところでノックの音がした。続いて入室の挨拶と共に若い家政婦が入口のドアから入ってきた。手には持ち手のついたトレーがある。来客の時は隣のダイニングではなく、回廊で繋がった別棟の調理場を使う。

 家政婦の髪は肩までの長さをしていた。緩やかに丸みを帯びた髪を首の後ろで一つに束ねている。控えめな目元や色の薄い唇が印象を目立たないものにしていたが、前髪がわずかにかかる広いおでこやふくよかな頬には人の良さそうな明るさがあった。少し丸みのある体つきも、そうした雰囲気に似つかわしかった。服装は白いブラウスにベージュのタイトスカート、白いエプロンだった。

 テーブルの近くまで来ると、家政婦は紅茶の入ったカップとソーサー、チェリーをふんだんに使ったタルトを並べ始めた。手前に置かれた時、小夜は軽く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 穏やかな声と笑顔をしていた。

 家政婦は少し驚いたような表情になった。一瞬の後、好意的な笑みとともに会釈をし、トレーの上の物を並べ終えると退出していった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る